第四十四話

天希達が大網の船に捕らわれてから2日が経とうとしていた。大網が彼らをどこへ運ぼうとしているのか、当人達は知らなかった。
「そりゃあいつも先生にゃお世話になってるからな、どっかの無人島に下ろしてそのまんま、ってことはねえんじゃねえの?」
と田児は曖昧に答えるが、外を見ても島が見えるのすら稀で、ほとんど陸から離れた場所をさまよっているだけのようだった。
また妙なのは、天希達が捕らえられた時はにこやかだった真悠美が、落ち着きのない張り詰めた表情をしている事だった。船員達もなぜ彼女がピリピリしているのか知らず、それでいてかなり気にしているようであった。
「おかしい」
真悠美はつぶやいた。船内をウロウロし、船員に何かを耳打ちしては、探し物でもしているかのように部屋をいくつも覗き込むのだった。
ある部屋を覗きこもうとした時、同じ事をしている人間がいたらしく、頭同士をぶつけた。
「痛っ!」
「いっ、母さん?」
しかめた顔を上げると、そこには天希がいた。真悠美は息子の顔を見るなり、声を荒げて言った。
「天希!あの子、あの片腕の子はどこなの?」
「えっ?」
珍しく同乗者がいるとはいえ、真悠美が大網や船員以外の人間を気にするのを、天希は始めて見て動揺した。
「奥華の事?俺もちょうど探してたんだ!母さ奥華と何かあったの?」
それを聞いて真悠美はさらに顔をしかめ天希を睨みつけるが、その顔を一旦伏せ、天希の肩に手を置いて、息を殺しながらつぶやいた。
「妙なのよ・・・波の計算が微妙に合わない。X56、Y112.2、Z38.4点はドストー海域で72・・・」
それから真悠美は何か難しい言葉で調子の狂いをぶつぶつとつぶやいていたが、天希にはその内容が分からなかった。
「あの子は?」
真悠美は顔を上げ、また睨むような目で天希に尋ねた。
「え・・・」
「あの子のデラストは?」
「水を・・・操る」
天希は真悠美の方をまっすぐ見て答えた。真悠美は何かを考えているのか、動かなかったが、天希が次に何かを言おうとした瞬間、真悠美は天希の肩を突き飛ばし、おもむろに甲板の方へ走り始めた。
「母さん・・・?」
立ち尽くす天希の後ろから、誰かが肩を叩いた。振り向くと、カレンだった。
「天希君、今すぐ来てください!」
「なっ、何が何が?」

船内が動揺に包まれているのを尻目に、雷霊雲はこっそり招集をかけていた。船から脱出する作戦を練っていたのだ。作戦の内容は最初に可朗に伝わった。
「我々が最初に捕らえられた時は、天希とエルデラ以外にあの攻撃の正体をはっきり認識できる者はいなかった。だが、ドッペルとカレンに彼らの能力で大網の能力を読ませた・・・砲弾や魚雷も使えるという話だ。そこで、片方が脱出用の魚雷を飛ばし、もし追尾攻撃がきたらもう片方が相殺する、と行けば逃げ果せる可能性は十分にある。前者がドッペル、後者がカレンになるだろうな。大網が追尾攻撃に前以上の力を入れてくれば相殺とまでは行かないかもしれないが、カレンもレベルは十分に・・・」
そこで雷霊雲は言葉を切り、船員の通り過ぎるのを待った。
「でも、脱出したとして、一体どこを目指すんですか?」
可朗は小声で尋ねた。すると雷霊雲は紙を一枚取り出し、広げてみせた。そこにあったのは島の写真だった。どことなく不気味な、黒ずんだ塔が建っているのが目を引いた。
「この島だ。ドラゴナ島・・・ヒドゥン・ドラゴナの本拠地」
可朗は唾を飲んだ。
「この船、『なぜか』ドラゴナ島へ向かっているらしい。真っ直ぐにだ。真悠美さんはその事で焦っている。今のうちに脱出し、真っ直ぐ進行方向へ向かえばドラゴナ島へ着く。すでにドッペルが外に出て、誰にも気づかれずに船の真上を飛行している。皆が甲板に出たらすぐ変身し、皆を乗せて飛ぶつもりだ。決行時は私が合図をする。不意を付き、なるべく時間をかけないように」
皆この作戦に同意し、決行する心を整えていた。しかし、天希は奥華の姿が見えない事が気がかりだった。その旨を伝えると、雷霊雲はこう答えた。
「奥華はいる。恐らく・・・この船を大網や真悠美さんの意図と別にコントロールしているのがそうだ。彼女がドラゴナ島の場所を知っていてやっているとすれば予想外だが・・・とにかく行け。この機会を逃すな」

甲板に出る戸が荒々しく開かれ、真悠美が降りてきた。
「まずい・・・まずい!」
真悠美は落ち着きを失い、大網に直に今の状況を報告しに行かなければ気が済まなかった。戸を閉めようとした瞬間、後ろからカレンが手をついた。
「なっ!?」
カレンの手が一瞬、真悠美の身体に食い込み、デラスト・エナジーの一部を奪った。
「アンタ・・・!」
真悠美が反撃に出ようとした瞬間、激しい電撃が彼女の目の前を襲った。彼女の真後ろには君六が立っていた。
「くっ!」
真悠美が怯んだ隙、カレンは甲板に飛び出し、船内に伸びた糸を手繰った。すると君六、天希、可朗が甲板に引っ張り上げられた。
「来たか!」
ドッペルはその様子を見て、すぐさま巨大な魚雷の形に変身しながら甲板に降りてきた。
「さ、乗ろう!」
可朗が先導した。魚雷となったドッペルの側面が開いた。
「わざわざ乗り込めるようになれるなんて都合がイイネ・・・」
「あれ?」
カレンは残りの糸を引っ張ったが、どこかに引っかかっているらしく動かなかった。
「どうした、カレン!?」
そうしているうちに真悠美が糸をものすごい形相で甲板に上がってきた。糸が切られ、カレンは転びそうになったが、乗り込む直前だった天希がUターンして支えた。真悠美は手を前に突き出し、衝撃波のようなものを放つと、カレンが全く同じ構えから、同じ技を繰り出した。技は相殺された。
「ごめんな、母さん!」
天希はそう言ってドッペルに乗り込んだ。カレンは糸付きの人形を、魚雷に向かって放ち、巻きつけた。間も無く魚雷は海に向かって落下し、猛スピードで海の上を進み始めた。真悠美はその様子をただ睨むだけだった。大網が魚雷を放ち追い打ちをかけると思われたが、いつまで経っても魚雷か砲弾が射出される反動を感じる事はなく、魚雷は遠のくばかりだった。彼女の目線の先には、一つの島と、そこに建つ不気味な塔があった。

第四十三話

真悠美は船底の窓から海中の光景を眺めていた。船の壁を叩いて何か合図を送っているように見えた。実際それはまぎれもなく真悠美から大網への信号だった。
(71°・・・ゴミあり・・・)
間もなく、船の先から魚雷が発射された。魚雷は真悠美が合図したとおり、進行方向から71°の方角に向かって飛んで行った。真悠美はさらに細かく波を読み、『ゴミ』の詳細位置を大網へ送ったが、2発目の魚雷は発射されなかった。
真悠美は誰もいないはずのその部屋から去ろうとしたが、妙な気配を感じて反対側の窓を見た。そこには奥華がいた。ついさっきまでの真悠美と同じように、窓の向こうを眺めていた。外の光景に釘付けになっているのか、ピクリとも動かない奥華の後ろ姿を見て、真悠美は怪訝に思った。わざと足音を大きくして後ろから奥華に近づいたが、向こうが振り向く気配はない。
(この子、耳大丈夫なのかしら?)
真悠美はニヤリとして、奥華の頭の方に集中した。奥華の頭の波を読みに行ったのだ。しかし、その波を感じた途端、真悠美はすぐさま集中を解いた。
「・・・あんた・・・」
思わず真悠美はそう口からこぼした。奥華には届いたらしく、我に返ったように振り向いた。
「ええっ!?あっ」
奥華は非常に動揺していた。振り返り、真悠美を見、逃げ出す間に4度も跳ねた。その動揺ぶりに真悠美も焦って手を横に振ったが、言葉を交わす間もなく、奥華に逃げられてしまった。
(何なの、あの子・・・)
真悠美は顔をしかめた。それは態度を見て出ただけの言葉ではなかった。

「あ、奥華」
走ってくる奥華の反対側からは可朗が歩いてきていた。奥華はブレーキをかけるより先に右手で可朗の顔に思い切りビンタした。
「いっだ!」
可朗は脇に倒れかかり、奥華は立ち止まった。
「何するんだ!」
「あんたが邪魔だったんじゃん!」
「だから人を邪魔扱い・・・」
可朗は気がついた。いつもの奥華ならこっちに顔を向けて話すが、今は背中を向けている。すると、それに奥華自身も気づいたのか、少し可朗の方へ向いた。しかし目を合わせてこない。
「まだ風邪が治ってないんだろう?もう少し寝ておきなよ」
可朗がそう言ったが、奥華は返事もせずに行ってしまった。
「どうしたんだ・・・?」

(違う、あたしは自分であの部屋に行った、行きたくてあの部屋に行ったんだ、だから天希くんのお母さんにも気づかなかった。行きたくて行ったの!何も変じゃない、変じゃない、何も変な所ない・・・)

「変だな・・・」
田児は顎をさすりながら言った。
「んん?どうしやした田児さん」
下っ端の一人がその声に乗っかった。
「あんな顔してるぜ、真悠美さんらしくもねえ・・・」
真悠美は何か腑に落ちないような顔で歩いていた。田児は不安げに彼女のいる方向を見ていたが、それを見た他の下っ端が声を張り上げた。
「おーっす、真っ悠っ美っさーん!」
それが聞こえると、真悠美はまるでロボットのようにその表情のままスタスタとこちらに歩いてきた。
「何、あんたたちそれは」
見ると、男衆は聡美を囲み、それを巧太郎と玄鉄が必死にかばってるような格好だった。
「あんたらね・・・あたしがいるのにそんなに女が珍しいかい」
「だって、グヘヘヘ・・・すんません、つい」
「何が『つい』だか。あたしだってガキは好きじゃないけど、ガキに目付ける男ぁもっとダメよ」
真悠美は白けた目で見回していたが、田児と目が合って止まった。
「どうした・・・?」
真悠美は細い目をしながら言ったが、田児は答えずに真悠美を見ていた。真悠美は田児が何を気にしているのか解って悟られた気分になったが、表情は変えなかった。
「ちょっと考え事してるだけよ」
真悠美は下っ端達の襟を掴んで引きずりながらその場を去った。巧太郎と玄鉄はしばらく緊張した顔をしていたが、下っ端達がいなくなると二人は力を抜いた。
「ビビったぁ〜・・・」
「ちょっと、あんなデラストすら持ってない奴らに囲まれてビビってたんですの?情けないったらありゃしませんわ!」
「えっ、持ってなかったんですか・・・誰も?」
「そんなの分かりますでしょ?デラスターの勘で!」
「そ、そんなこと言われたって・・・」
巧太郎は困惑していた。
「ほう、そりゃすげえ」
三人は田児がその場に残っていた事を見逃していた。三人はまた身構えた。
「確かにあん中にデラスト持ってる奴はいねえ。いたらとっくに海に放り出されてら」
「え・・・?」
田児は腕を組み直した。
「この船にはデラスト持ちは大網さんと真悠美さん以外は許さねえって決まりなんだよ、ホントは。誰か一人でもそうなったら即効叩き出す、ってな。今ぁ先生がいるって事で特別こんな状況だが、正直居心地悪ぃな全く〜」
「な、なんかすいません・・・」
ガードマンの二人は冷や汗をかいていた。田児は少しニヤリとした。
「実際に叩き出されたのは今までに一人しかいねえけど」
当時の事を思い出しているのか、口を抑えて笑っていた。
「お前らもお友達なんだろアイツの?・・・エルデラだよ」

当のエルデラは砂浜に打ち上げられていた。それを発見したのは、全身が鱗で覆われている、人離れした体を持つ生き物『ドラゴナ』だった。最初の発見者は仲間を呼び、自分たちが暮らす家の一つに運んで行き、麻の布を敷いた上にゆっくりと寝かせた。エルデラは目を覚まさなかった。
【息はしているか?】
【一応は戻っている様子だ】
彼らは珍しそうにエルデラの体を覗き込んでいた。
【ゼウクロスと同じ『ヒト』だな】
【ヒドゥン塔の奴らみたいな事言うなよ】
【これをあいつらが見たらどんな顔する?】
【いや、まず連れて行かれるかもしれない】
【こいつまだ何も悪い事してないぞ】
【ヒドゥン塔のやつらのことだから、きっと殺される前に殺せとか言ってくる。あたまおかしい】
天希達が使っている言葉とはかけ離れているが、だいたいこのような事を話していた。
【まだ目を覚ましてない、だが目を覚ましたら俺たちの敵か?】
【わからない、でもわからない】
家の戸が突然開いた。中にいた一同はびっくりした。
【何をしてる?】
集落の一部がその家に集まっている事に他の住民が次々と気づいては集まっていき、エルデラの寝ている家は押しかけ状態になっていた。
【おちつけ、おちつけ!見たい奴はまず並べ。ゼウクロスも兵隊を並べて勝った】
その一言を聞いて、彼らは一列に並び直した。
【まれびとだ・・・】
ドラゴナ達は、最初は寝ているエルデラの姿を見ては去っていたが、後になって食べ物などを持って再びエルデラの寝ている家へ集まってきた。その家の主はエルデラの事は静かに見守っていたが、その分押し掛けてくる他のドラゴナ達に少し困っている様子だった。
【何しに来た?】
【目が覚めたときって腹減るだろ、ヒトも同じと思ったから】
【いいことすると返ってきそうな感じがする】
ドラゴナ達は再び家に集まって、眠り続けるエルデラをじっと見ていた。
【な、なあ。こいつは俺が見張ってる。目覚めたら俺がすぐ知らせる。だから帰ってくれよ、狭いんだ】
家の主はそう言ったが、誰にも聞こえて無い様子だった。
【おい、何してる!】
突然、家の外から怒鳴り声がした。
【ヒドゥン塔のやつだ!】
【ヒトが見つかったら怖いぞ】
ドラゴナ達は、エルデラを隠すようにして座った。というよりエルデラを椅子にするような格好だった。
【今、ヒトと言ったな?】
細かい刺繍の入った、紫の布を体に巻いたドラゴナが姿を表した。
【ヒトを隠しているな?お前らはヒトをかばうのか!ヒトはゼウクロスの仲間だ、ヒトは敵だ!それをかばうことは許せない!だからお前達はいつまでたっても、こんな汚い集落で暮らしているのだ】
そのドラゴナは刺繍を左右に見せびらかすように歩きながら入ってきた。
【ヒトなんていないぞ】
【お前らの塔へ行くよりマシだ】
ドラゴナ達は言い返したが、後ろからさらにやってきた紫布を巻いたドラゴナ達ともみ合いになった。
【見ろ、やっぱりあそこにヒトがいるぞ、捕まえろ!】
【そうはさせるか!】
集落のドラゴナ達は必死に抵抗したが、『ヒドゥン塔』側のドラゴナ達が武器を見せると、立ちすくんでしまった。結局、全員エルデラの周りからどけられてしまった。それでも反抗するドラゴナもいたが、エルデラは眠ったまま強引に連れて行かれてしまった。
【ちくしょう!あいつらいつも自分勝手だ!】
【何が『ヒトをかばうのか』だ、俺知ってるんだぞ、あの塔はヒトが建てたんだ、あの塔のボスだってヒトで、あいつら騙されてるんだ】
【そんなこと言わなくったってみんな知ってるだろ。でもやっぱり・・・あいつらがなに考えてるか分からない・・・】
彼らは、島の西にそびえたつ塔を眺めながらつぶやいていた。

第四十二話

「ふぅ・・・ふぅ・・・」
薬師寺悪堂は非常に焦っていた。飛行機に搭載された無線機が受信したのは、真悠美が発した電波だった。その電波は、船の中で真悠美が天希達に話した事を、一語一句漏らさずに、真悠美そのままの声で変換され、悪堂の耳に届いた。
「我々をおちょくっているのか峠口っ・・・!」
飛行機はヒドゥン・ドラゴナの本部が置かれている孤島へと着陸した。悪堂は飛行機に同乗していた部下を連れ、本部建物と発着場をつなぐ通路を急ぎ足で進んだ。
「生意気なガキどもめ・・・!」
悪堂はそればかりつぶやきながら歩いていた。
「あ、あのー・・・」
後ろから声がした。悪堂は怒りの表情を微塵も隠さずに振り向いた。声の主は動揺しながらも続けた。
「ここ、一体どこですか?俺ついてきてよかったんでしょうかね・・・」
悪堂は足を止めた。ついてきている部下の中で、布をかぶっていないのはその男だけだった。悪堂は少し考えた挙句、怪しい笑みを浮かべて応えた。
「良いでしょう、今からあなたは第四級官です。ここ、ヒドゥン・ドラゴナ本部への入構は許可されます」
悪堂は布を外すのを躊躇っている部下達に向かって言った。
「何をしているのです、今のやりとりを見ていたでしょう。もう隠している必要はありませんよ」
そう言って悪堂は歩き出した。後に続く部下たちは、歩きながら顔にかかっている布を外し始めた。
「布なんか被ってて、暑くないんで・・・」
彼は絶句した。同時に足も動かなくなった。布の下から現れた顔は、人間のそれとはかけ離れていたからだ。前に長く伸びた鼻口部、顔の両横を向いた目、褐色の鱗に覆われた肌。それらは彼らが全身に纏っている襤褸の布に比べれば美しく光っていたが、それを初めて目にする彼が驚きで頭が混乱する中、やっと形を成した言葉は「気持ち悪い」だった。しかし幸か不幸か、口は歯と歯を離したまま動かなかった。緑色をした目は彼のたじろぐ様子を捉えたが、特に反応もなくそのまま廊下を歩いて行った。
「ば・・・化け物か・・・?」

悪堂はさらに奥の部屋へと向かった。周りにいるのは皆、同じく鱗に覆われた肌を持っており、三角形をした長い顔を悪堂に向けては、その頭を振り下ろすようにしてお辞儀をした。
「悪堂様、オカエリナサイマセ」
顎の形と発音が合わないのか、廊下を進むごとに片言な挨拶で悪堂は迎えられた。悪堂は奥の部屋に着くと、そこにあった豪華な椅子に腰をかけた。
「・・・他のドラゴナ全員にも伝達しろ。飛王天は敗北、それに伴って飛王天支部は消滅。支部所属の高血種族収容所も破壊された。今から30分後にホールに集合せよ、と」
悪堂の声は震えていた。「ドラゴナ」と呼ばれたそれは無言でうなずくと、部屋を出て行った。間もなく、人間のものとは掛け離れた発声、言語で放送が入った。この言語は悪堂もよく理解していない。悪堂は大ボリュームの放送の中、小さく呟いていた。
「ゼウクロスが目覚める前に、血の海にしてやろうか・・・」
放送が終わると同時に、悪堂は卓上の電話が鳴っていることに気がついた。悪堂は電話をはたくように取り、声を荒げて言った。
「誰だ!」
しかし向こうから返事はない。悪堂は追い討ちをかけようとしたが、妙な勘で電話の先にいる相手が分かってしまった。その途端、彼の顔から一気に怒りのシワが消え、がなりつけようとした言葉は喉の奥へ消えてしまった。沈黙がしばらく続き、彼の手が震え始めた時、予想通りの相手の、女性の、非常に低い声が聞こえてきた。
「・・・さて、誰かしらねぇ」
その声に悪堂はさらに震えが大きくなった。しかし彼は震えを噛み締めて、はっきりと応答し始めた。
「ボス・・・!ご無沙汰で・・・」
悪堂はまるで人形のように席の上で固まっていた。
「元気そうで何よりね。ところで、アビスの奴の軍団と、飛王天支部の調子は良好かしら?」
トーンは非常に低かった。そして遅く、重々しかった。悪堂は頭と内臓がぐるぐる回っているような感覚を覚えたが、なるべく明るく返答しようと思い、声の調子を上げて返答した。なぜそうしようと思ってしまったのか。
「りょ、両支部とも非常に奮闘しております!先日は飛王天支部にてヴェノム・ドリンク33号が目標の値を達成いたしました!」
糸車が空回りするような声が出た。悪堂は気が遠くなる思いがした。
「ほう、達成したかい、それは初耳だねえ」
空回りしていた悪堂の笑顔に身が出てきた。悪堂はすかさず返答した。
「今までにないほどの出来でございます!これを量産してそれぞれの角に送れば我々ヒドゥン・ドラゴナも北角としての立場を見せつけることができるかと!」
悪堂は期待して返答を待った。しかし、聞こえてきたのは冷めた笑いだった。
「悪堂、アンタがそんな子供だったとはねえ。どおりであのジジイの、飛王天の世話がろくに出来ないわけだ」
悪堂の頭は真っ白になった。焦ることも苛立つこともなくなり、ただ受話器から流れてくる声を聞くばかりだった。
「他の角に立場を見せつける?そんな事のために今まで高血種族どものダシ取ってヴェノム・ドリンクを量産してたのかい。もういい、アンタみたいなガキにドラゴナ共を制御できるはずなんてなかったんだよ。両支部とも奮闘してる、ってのはアンタなりに考えたジョークね、褒めてやるよ。24時間以内に戻る、それまでにおままごとでもして待ってな」
電話は切れた。しかし悪堂が動き出すまでに3分はかかった。彼は受話器をゆっくり机に置き、そのまま部屋のドアに虚ろな目をやった。それと同時に、シワが潰れそうなほどに顔をしかめ、目の前にあるものを投げるようにどかしながら部屋を出た。
「くそう!何故だ何故だ何故だ!全て、全てあのガキ共がッ・・・!」
悪堂は床に蹴りを入れる足取りでホールへ向かった。
「今に見てやがれ・・・かつてゼウクロスをも混乱させた古代の軍勢が、貴様ら人間共を血祭りに上げる様を・・・!」

エルデラは海の上を漂っていた。疲れ切った表情をしていたが、それでもデラストの力を使い続けるしかなかった。
「これだけ経っても魚雷が飛んでこねえって事は、場所はバレてねえな・・・」
海上には小さな波が立っていたが、エルデラのいる点に近づくにつれて波は小さくなり、彼の周りでは波はほぼ全く立っていなかった。
「しかし、これからどうするか・・・」
彼は辺りを見回した。さっきから何度もそうしているのだが、どの方角を向いても水平線が見えるばかりで、島らしきものどころか、物と呼べるものが一切目に入ってこない。海と空だけがあり、空を雲が、海を波が漂うだけの世界だった。エルデラは死後の世界にでもいるような雰囲気を覚えた。
「船ぐらしで見慣れた光景のはずだと思ったんだけどな・・・1人で放り出されたあの日ですら平気だったが、今日は本当に一人だな」
海の上を浮かびながら感傷に浸っていたくもあったが、そうのんびりしている場合でもないと改めて自分に言い聞かせた。エルデラは一旦デラストの力を解いた。そのまましばらく漂い、深呼吸した後、最低限の空気が残るまで息を吐いてから潜った。
(そうだな、見つからない事がいい事ばかりじゃねえ)
エルデラの体はどんどん沈んで行った。沈みながら、常に辺りを360°見回していた。
(俺の勘が正しければ、来るはずだ・・・!)
辺り一面は、真上から太陽光が注いでいる以外はほぼ暗黒の世界だった。海上からは見えない、海の闇が横に下に広がっていた。どこから来たかわからない波が彼の体を揺らして通り過ぎて行く。体は音のない深い深い闇の中にどんどん沈んでいく。エルデラは息苦しくなってきた。
(来い、早く来い・・・!)
苦しさは次第に増して行くが、彼は辺りを注意深く見回し続けた。そのタイミングを逃すわけにはいかなかった。そして、突然の強い波に体が引き寄せられると、彼は全神経を集中した。
魚雷はすぐに目の前に現れた。彼は紙一重で、猛スピードで飛んでくるそれの命中を避け、すかさず後ろについた羽を掴んだ。魚雷は標的を失ったまま、海の中をまっすぐ進んで行った。エルデラは意識が朦朧とし始めたが、ここで少しでも気を抜けば再び海の中へ放り出されてしまう。波による上下左右の激しい揺れに翻弄されながらも、エルデラは手を離すまいと、魚雷の羽をしっかり左手で掴んでいた。
(頼む、どこでもいい、陸と呼べる場所に着いてくれ・・・!)
エルデラのデラストの力によって、魚雷の羽は彼の指先の部分から徐々に削れていき、やがて穴ができた。彼はそこに指を通し、強く握った。これでさっきよりも掴む力は少なくて済む。しかし意識は飛び始め、徐々に全身が言う事を聞かなくなり始めている。魚雷は走る速さ、泳ぐ速さを遥かに超えるスピードで進むが、進んでも進んでも深い海の色が続くばかりで何も新しいものが見えない。一体どこへ辿り着くのか、それともこのまま海の底へと沈んでしまうのか。
「・・・カ・・・レン・・・」

第四十一話

「協定・・・それは一体、どういう事だ」
「簡単な話よ、互いの目的を邪魔し合わない、つまりぶつかり合わないっていう取り決めをしたのよ」
真悠美は大網の隣に崩れるように座った。
「『海角協定』ってね。あちらさんの海域利用に目をつむる代わりに、あたしらは『角』の一つに匹敵する実力を持った組織として認めてもらってるわけ」
「『角』・・・?角とは一体何だ?」
「あららぁ、先生のくせに何も知らないのぉ?フフフ・・・」
真悠美は笑ったまま答えなかった。田児はニヤニヤしながら雷霊雲の顔を見た。
「そういうことだからさ、先生、ドラゴナの連中について、俺たちがこれ以上口を割る訳にはいかんのよ。諦めて海の旅を楽しむ事でしゃ」

「・・・う」
天希は目を覚ました。
「ここは・・・」
やや視界がぼやけていたが、天希にとっては見慣れた色合いだった。天希は体を起こしつつ、自分の肌と床板がすれる音に耳を傾けていた。
「あら、起きたのね」
ドアの開く音がした。振り向くと、そこには人の影があった。
「母さん・・・!」
天希はつぶやいた。と同時に、彼は突然目を鋭くして、その人影に飛びかかった。
「おっと」
人影は何の迷いもなく、飛びかかってくる天希の額に指を伸ばし、縦に軽く叩いた。
「!?」
瞬間、天希の視界が傾き、上下が分からなくなった。天希は勢いを失い、その場所に転がってしまった。
「やっとデラストを手に入れたようね、上出来だわ。でも、母ちゃんを倒すには10年早いわよ、ひよっ子ちゃん」
天希は手探りで地面を確認し、顔を上げた。そこには、6年前とさして変わらぬ母親の姿があった。
「おかえり」
真悠美は天希に微笑みかけた。雷霊雲が船長室を訪れてから30分と経たないうちの出来事だった。

「『波動』のデラスト・・・?」
「へい。何でも、おおよそ波と呼べるものはどんなものでも操れるっていうのが、本人のおっしゃってた事で」
雷霊雲は、田児の他に可朗、君六達とともに廊下を歩いていた。
「船を動かす時ゃ大網さん1人で十分なんですが、姐さんもまたすげえ力をお持ちでして。ピターッと止むんですわ、波が」
「へえ・・・」
「後は、姐さんにこう、頭をコツーンって叩かれると、誰でも一発で寝ちまうんですわ。天希坊なんかはいつもそれで静かにさせてたんです。さっき酔っぱらってたのも、自分の頭をコツーンってして、それでサッパリ覚めちまうらしいんですわ」
「・・・脳波だな。人の頭も波で動いてる」
一同は納得したようなしてないような頷き方をした。
「とすれば、波を『読んで』我々の居場所を把握していたのは、真悠美さんの方だったか」
「ふ、夫婦連携ってことかな・・・すごいね・・・」
君六は隣にいる可朗にかろうじて聞こえる声でぼそぼそとつぶやいた。雷霊雲は急に立ち止まり、田児の方を見た。その言葉が出る前に田児が目を丸くして睨み返したので、雷霊雲は逆に驚かされ、何かに叩かれたように言葉を吐き出した。
「我々をこの後どうするつもりだ」
田児の足は止まらなかった。
「大網さん次第って所ですかね。俺ら以外の人間を船に乗せるなんて、そうあることじゃねえですし」
そう言って田児はトイレに入って行った。

天希のいた部屋から出てきたばかりの真悠美に、カレンは話しかけた。
「あの、天希君の、お母様、なんですよね・・・」
「あらあら。さっきはごめんね、船に女が増えるとあたしつい嬉しくなっちゃってさ~」
「いえ、大丈夫です!気にしてませんから・・・」
「あらそう。フフ、面白い子・・・」
そう言って真悠美は馴れ馴れしい手つきでカレンの頭をなでた。カレンは少し恥ずかしげにうつむいた。
「あら?この感触、なんか覚えがあるわね・・・」
それを聞いて、カレンは顔を上げた。
「そうです!私、エルデラの妹のカレンです・・・!あの、兄さんが海に落ちたはずなんです。それで、今どこにいるか教えてください・・・」
真悠美はそれを聞いて少し固まったが、間も無く大笑いし出した。
「あっはは、本当に!?あんたがカレンちゃん?すごいメンバーねえ!何、エルデラまでいるの?ははは、そう!」
エルデラの名を聞いて、海賊の下っ端が集まってきた。
「ふーん、そう、エルデラまでねぇ・・・本当に面白いわ・・・残念だけども、この船には拾われてないわね。海の波を見ても、それらしき反応はないわ」
「えっ?それって・・・どういう事ですか・・・?」
「どういうことって言われても、あたしゃ知らないわよ。どっかの島にでも降りたのかしらねえ。さすがに海の真上を移動されたらあたしにも分からないわよ」
「で、でも・・・」
「あいつもひさしぶりに顔出せばいいのに。どのくらい大きくなったのか見てみたいもんだわ。ねぇ、天希?」
真悠美は振り返ったが、部屋に天希の気配はなかった。
「あら?」

外は雨が降っていた。奥華は甲板の隅で縮こまっていた。
「・・・あたし」
奥華は、雨に濡れた自分の右手の平を眺めていた。滴が降り、肌を伝い、流れていく様を何十分も眺めていた。空の様子は不安定で、雨が弱くなったり、晴れたりもしたが、奥華はそのまま動かなかった。やがてまた雨が降り出した。奥華は突然、左肩を押さえた。床を流れる雨水に、自分の顔が映っているのを見た。雨の波紋でゆがんで見えたが、そこにある顔は、ただ暗い表情をしただけの、いつもの自分の顔だった。
「・・・違うでしょ」
奥華は映った自分の像に向かって話しかけた。
「出てきてよ・・・誰なの?あたしの中にいて、あたしじゃない誰か・・・」
雨が止み、水面は彼女の普段通りの姿を、さっきよりもはっきりと映した。
「・・・」
曇った空がかすかに光った。
「・・・いないよね、そんなの。あたしがただおかしな子なだけだよね・・・」
そう言って顔を伏せたが、すぐに顔を上げて叫んだ。
「嘘つかないでよ!」
それと同時に雷が鳴り、さっきより強い雨がどっと降り出した。
「天希君のお兄さんの前でも出てきたじゃん、隠れてないで出てきてよ、ねえ!」
当然、返事はない。雨が床を強く打ち、映っていた奥華の姿は形が分からなくなるほどにゆがんでいった。奥華にはそれが、自分が形をとどめぬ怪物の姿に変貌していく様に見えて、恐ろしくなりその場にさらに縮こまった。
「嫌、嫌だ・・・嫌だよ・・・」
一度奥華を呼ぶ声がした。しかしその声は雷鳴にかき消され、彼女の耳には届かなかった。
「奥華ー!」
二度目のその声は奥華の耳にはっきりと届いた。思わず顔を上げると、すでに目の前にその姿があった。奥華は思わず立ち上がった。
「あ、天希君?」
「どうしたんだよ、こんな所で。風邪引くぞ」
「か、風邪?大丈夫だよ、あたしのデラストは水を操るんだよ、引くんだったらとっくに引いてるよ」
「そっか、確かにそうだよな!」
自分のわけの分からない理屈に納得されたのが、奥華は少し悔しかった。
「うわー、すっげー雨!転んだらそのまま海に滑り落ちそうだな!」
「う、うん・・・」
奥華はまた暗い顔になった。
「ん?どうしたんだ?」
「・・・天希君。あたしって、誰だか分かる・・・?」
「えっ?お前奥華だろ?そんなの決まってるじゃん!奥華・・・えーと、なんだっけ苗字」
「本当に?本当にあたしなの?あたしはあたしなの?」
「え?どういう意味だ?俺なぞなぞみたいなの分からねえぞ・・・あっ分かった、お前ドッペルだろ!奥華に化けたドッペルだろ!」
天希は自信満々に指をさした。奥華は少し笑って、顔に影を落とした。
「・・・そうかもしれないね」
「・・・?」
奥華は2歩ほど前に出た。
「・・・どうしよう」
「何が?」
「天希君・・・もしあたしがあたしじゃなかったら、どうしよう・・・!」
奥華は顔を上げた。泣いていた。
「お、奥華?」
「ねえ天希君、あたし嘘ついてきたのかもしれない。自分で自分が誰だかわからないのに、学校のみんなにも、ネロっちにも、天希にも、あたしはあたしみたいに振る舞ってたのかもしれない・・・!」
奥華は肩を震わせて泣きはじめた。天希は混乱したが、奥華の方に寄り、肩を叩いて言った。
「じゃあなおさら、奥華は奥華じゃんか」
「・・・えっ?」
「俺にとっても可朗にとっても、みんなにとっても、お前は奥華だし・・・アダ名とかで呼ばれたことないだろ?じゃあやっぱり奥華は奥華で、えーっと・・・他の誰かじゃないだろ?」
「・・・」
「んんん?自分でも何言ってるかさっぱりわかんねえ!とりあえず奥華は奥華だ!難しい事は無しっ!俺がわかんねえから!」
そう言って天希は突然、奥華の右手を握って走り出した。
「えっ?ちょ・・・!」
天希は船首の床扉の所まで走ってきて、雨水に浸された扉を開けようとした。しかし、扉は開かない。
「あれ・・・?」
天希は奥華の手を放し、両手で取っ手を握って開けようと踏ん張ったが、扉はびくともしなかった。
「うわーっ!閉め出された!」
天希は頭を抱えて叫んだ。そして奥華の方を苦笑いしながら振り向いた。
「これ・・・雨が止むまで開けてくれねえぞ・・・はは」
その時奥華は初めて気がついた。天希の髪も雨に濡れて垂れ下がっていたのだ。奥華はここにいる天希も当然びしょぬれになっているという事に、今の今まで気がつかなかったのだ。
「・・・天希君」
今度は奥華が天希の手を引いて、船の反対側まで走っていった。
「お、おい、奥華?」
二人は船尾の、少し屋根の出ている下まで来て、そこで雨宿りをした。
「ここか。それにしても雨すげーな・・・」
直後に天希はくしゃみをした。
「あ、天希君、大丈夫!?」
「んあ、平気だよ・・・」
奥華は首を横に振ると、天希の方に手を向けた。すると、天希の髪や服についていた水が、天希の体から離れて行った。
「これで大丈夫・・・!」
「おおっ、すげえ!ありがとな奥華!」
奥華はついでに足元の水を掃けた。二人はそこに座り込んだ。
「ごめんね天希君、こんな所まで探させちゃって・・・」
天希は何て事ないと言った表情で奥華の方を向いた。
「今度から心配かけさせんなよ」
そう言って天希は笑いかけた。奥華も笑い返したが、疲れが見えていた。少し会話の無い間が続くと、奥華は眠くなり、そのまま目をつぶった。雨で冷え切った彼女の体は、自然と天希の方へ吸い込まれるように寄った。
(あったかい・・・)
睡眠に向かう意識の中で、彼女はただそう思った。奥華はとても心地よくなり、そのまま眠ってしまった。天希もいつのまにか居眠りしていた。雨はいつしか止み、船は静かに海の上を進んでいった。

「・・・それで」
可朗は呆れたように言った。
「いやあ、それだけ!起きたら雨止んでたしな」
雷霊雲に与えられた部屋から出てきたのは、ピンピンしている天希と、今にも倒れそうな足取りの奥華だった。部屋の方からは雷霊雲の声がした。
「おい奥華、お前は寝てろ。隣のバカは熱が出ても平気だが、お前はダメだ」
そう言って奥華の手を掴み、部屋へ引き戻した。ドアが勢い良く閉まった。
「まったく・・・バカは風邪引かないって言うけど、その話じゃどっちがどっちだか分からんよ・・・」
可朗はため息をつきながら言った。
「ん?どういうことだ?」
「どうでも・・・それにしても、奥華のやつも幸せ者だよな、まったく」
そう言って可朗は立ち去ろうとした。
「おい可朗」
天希は可朗を呼び止めた。
「何?」
「俺、誰だか分かる?」
それを聞いて、可朗はさらに呆れた顔をした。
「・・・もみじまんじゅうの妖精、じゃない?」
「は・・・?」
可朗はゆっくりと立ち去った。

第四十話

「父ちゃんだ・・・!」
大きな波に揺れるドッペルの背中の上、天希は影ひとつない水平線の向こうを、目を細めてみつめた。下の部屋からエルデラが素早く上ってきて、同じことをした。
「やっぱり来やがったか・・・」
爆発の余韻が消え、辺りはわずかな波の音に包まれた。天希は静けさを振り払うようにして辺りを見渡しはじめた。
「ドッペル、俺を水面まで下ろして」
天希がそう言うと、ドッペルの体の側面に足場ができた。天希は靴を脱ぐと、そこを伝って波立つ海面に触れられる位置まで下りた。
「落ちるなよ」
「落とすなよ」
天希は海水に足をつけた。
「冷てっ・・・」
水の中は青一色の世界が広がるだけに見えるが、いくつもの流れによってあちらからこちらへと移り変わっており、何がどこにあるかの判別をつけようとしても、その位置がずれてしまう事を、波の山が脛に触れるたびに天希は感じた。それでも、海の水とは明らかに違う冷たさの群れがこちらへ近づいて来る感覚は、足の裏を通じ、不気味な恐怖感となって彼の背筋に伝わった。
「ドッペル、飛べ!」
ドッペルは何か聞き返しそうになったが、その暇はないのだとブレーキをかけ、すぐに海面を離れて浮き上がった。天希は海面に向かって火の玉を投げたが、海に触れるとすぐに消えてしまった。
「あっ」
海面が不自然に泡立ち始めた。それを見るや否や、エルデラは海に飛び込んだ。天希は何が自分の隣を通り過ぎたのか分からずに振り向いたが、彼の眼窩が捉えたのは飛び込んだエルデラではなく、遠くからこちらへ向かってくる第二の砲弾だった。
「うわっ!」
砲弾はドッペルの横を通過したが、砲弾の後ろにできた風は宙に浮かぶドッペルを引っ張った。傾いたドッペルに、今度は海面からの爆発が襲いかかった。巻き起こった爆風は、足のついていないドッペルを爆心地から放り投げた。
「うわああっ!」
ドッペルは高速で宙を飛んだ。
「エルデラーっ!」
ドッペルは飛ばされながら、爆心地の方へ叫んだ。爆発によってできた波は、自然の波に揉まれて混ざり、あっというまに見えなくなっていた。
「くっ・・・!」
ドッペルは高度を落として、再び水面に体をおろし、海水をブレーキにして止まろうとした。波を作りながら、速度はだんだん落ち着いてきた。その時、彼は気づいた。
「天希!?」
さっきまで外にいた二人とも、すでに彼の上には乗っていなかった。
「さっきので飛ばされてもうたか・・・!」
立つ波も小さくなるほどに速度が落ち着いてくると、ドッペルはすぐに海面から離れようとした。しかし、それでは遅かった。無数の魚雷が近づいて来ている事に、ドッペルは当たってから気がついた。
「ぐわああああっ!」

「きゃああああっ!」
揺れと共に椅子が跳ね、皿が飛び交った。
「みんな!」
カレンは人形を走らせ、その糸で奥華と可朗を縛り上げた。
「えっ?う、うわぁ!」
固定された可朗の目の前に椅子が飛んできたが、四方から小さな人形達が飛び上がり、後ろについた糸で椅子を引っ掛け、動きを止めた。
「あ、危なかった・・・」
「可朗君、この部屋はお願いします!」
「えっ?」
そう言ってカレンは、糸を伝って隣の部屋へ向かって行った。
「・・・フッ、カレンちゃんの頼みなら、この僕も断るわけにはいかないね」
「格好つけてる場合じゃない!」
可朗が合図をすると、散らばった食材や木製の家具から芽が伸び出し、絡み合って絨毯のようになり、家具や食器を覆った。可朗は糸を切って床に降りた。
「どうだい」
したり顔をする可朗のこめかみに、固定し忘れていた湯呑みが直撃した。
「ぐぇ」
「あーあ・・・」

雷霊雲は最初の揺れがあった時から、飛王天のいる部屋へ移っていた。飛王天はしばしばパニックに陥っていた。
「落ち着け、慌てるんじゃない!」
向こうの部屋からは、聡美達の悲鳴が聞こえた。雷霊雲は天井に向かって話しかけた。
「おいドッペル、一体何があった」
「か、海賊じゃ、峠口大網じゃ」
「何?」
部屋が勢いよく傾き、雷霊雲は壁に叩きつけられ、飛王天のクッションになった。ほどなくしてカレンが部屋に入ってきた。
「先生、大丈夫ですか!」
「な、何とかな・・・患者が一人でよかったよ」
飛王天は変な悲鳴を上げていた。カレンは周りの音を聞くように周りを見回していた。
「兄さんは・・・?」
「いないのか」
再び衝撃が襲った。カレンはすぐさま部屋に糸を張り巡らし、壁から二人を守った。
「も、もう限界じゃあ・・・!」
ドッペルの半泣き声が聞こえ、壁が粘土のように曲がり始めた。
「おい、ドッペル!」
壁が溶け出し、床が消えた。三人は海に落ちるかと思われたが、実際に落ちたのは木でできた筏の上だった。筏には可朗、君六、奥華、聡美、巧太郎、玄鉄も乗っていた。後の三人はなぜか水晶で固められていた。そして上からドッペルが落ちてきた。
「これは・・・」
誰が何をしたのかはすぐに分かった。可朗がさっき以上にげっそりしていたのだ。しかし、筏の外にあったものが目に映ると、それすら気にかけていられない状況である事は明快だった。
「こりゃあ珍しいお客さんじゃねえか」
筏は7隻の船に囲まれていた。そのうちの1隻から顔を出した、がらの悪そうな男がそう言った。
「おや、三井ん所の末っ子がいるぞ」
「本当だぁ、違いねえな」
「お友達同士で仲良く海の旅ってか?俺達も混ぜろよォ~。ヘッヘッ」
後ろからさらに数人の男が現れて、筏を見下ろしながら笑っていた。
「おやぁ?ありゃ先生じゃねえか」
「本当だ、先生までいやがる」
「先生が乗ってるんじゃ、これ以上の攻撃はさすがの大網さんも許さねえなぁ。ヘッヘッ」

かくして一向は峠口大網の船に乗せられた。
「あんたら全員、デラスターらしいな。だが下手な真似をしたら、あっと言う間に海の藻屑になってあの世行きだ。大網さんの前ではなおさらだ。せいぜい気をつけるこったな」
斑鳩田児と名乗ったその男は言った。彼は大網のお気に入りで、海賊団員のまとめ役らしい。話を聞いた雷霊雲は、可朗達にささやいた。
「ここは彼の言うとおり、この場所のルールに従った方がいい。私がいれば大網も我々に手を下そうとはしないはずだ。くれぐれも、彼らの琴線に触れる事のないようにな」
聡美ら三人組は、互いに顔を合わせた。
「これってもしかして、二重捕虜ですの・・・?」

船の中ではある程度の自由が認められた。ドッペルは飛びながら船内見物をしていた。
「それにしても、海賊の船とは思えん広さじゃな。本棚に壁の装飾、家具、明かりときたら、まさに豪華絢爛といった感じじゃ。これが大網の趣味なのかのう。あの薄汚い下っ端どもにはどうにも似合わんわい」
「悪かったな」
突然、横から海賊団員が二人、顔を出した。
「ひっ!」
「大網さんの能力__えーっと、デラスト、だっけ?__は、船を作り出す力を持ってる。詳しいことは俺にはよく分からねえが、大網さんは各地で盗んだお宝を参考にして、作り出す船をさらに豪華に装飾できる力を編み出したんだそうだ。この船は大網さん自身の乗ってる船だからな、相当こだわってるぜ」
「なるほどのう」
ドッペルは改めて部屋を見回した。
「ワシが船に化ける時も、これくらい豪華な雰囲気にしたいのう」

雷霊雲は船長室に行き、大網と面会した。部屋には他に田児が付き添った。
「それで大網、腕の調子はどうだ」
大網は細く曇った目で雷霊雲を睨みながら黙っていた。大網の顔色を見て、田児が代わりに返答した。
「特に変わったところはねえです、順調ですぜ」
「そうか、なら良いんだ」
雷霊雲は一息置いた。
「大網、海の知識で右に出る者のないお前に、聞きたい事がある」
田児は拍子抜けしたような顔をした。
「へっ?」
「ヒドゥン・ドラゴナの本拠地を探している。もし知っている情報があれば教えて欲しい」
それを聞いて、田児はさらに目を丸くした。かと思うと、突然大声をあげて笑い出した。
「ぎゃははははは、ですってよ、大網さん!」
雷霊雲は田児の反応が気になったが、大網の顔を見続けた。その時、船長室のドアが勢いよく開いた。
「こおら、田児!また酔っ払ってるでしょぉ」
現れたのは大網の妻、峠口真悠美だった。両脇にはカレンと聡美が抱えられていた。
「姐さんの方が酔ってるじゃないっすか。顔真っ赤ですよ」
「はぁ?酔ってないわよ、全然!ねー」
真悠美はとろけたような笑顔でカレンに返事を求めた。
「は、はい・・・」
田児は雷霊雲のそばに寄り、耳元で囁いた。
「うちで一番酒癖悪いの、実は姐さんなんスよ・・・!」
その様子を見た真悠美は、抱えていた二人を放り出して前に出てきた。
「何あんたら、何コソコソ話してんの?」
「いやぁ、別に何でも・・・」
田児はごまかそうとしたが、雷霊雲は前に乗り出た。
「真悠美さん、ヒドゥン・ドラゴナについて何か知らないか」
「あ?ドラゴナ?何だっけそれ」
「姐さん、北角ですよ、北角!」
田児が脇から囁いた。聞き慣れない言葉に、雷霊雲は反応した。
「北角・・・?」
「あぁ~あ、北角ね。先生が北角に何しにいくの?」
「知ってるのか?」
「当たり前でしょ~、あたしら北角と協定結んでんだから」
「なんだと・・・!」

第三十九話

「ふむ・・・」
雷霊雲仙斬は、ソファに座って一人で考え、一人で納得していた。
「何か分かったんですか、先生?」
その様子を見ていた可朗が話しかけた。
「ああ、頭をぶつけた事は大した事ではなかった様子だ」
雷霊雲はそう答えて、少し考えてから、また可朗の方を見た。
「彼は明らかに何か・・・体に改造を施してある」
雷霊雲はそう言うと頭をわずかに前に傾けた。
「私のデラストは、人を治療する能力を持っている。あくまで治癒を目的とした能力だ。それでも、こう仕事をしていれば人の体についての事は嫌でも分かってくる」
雷霊雲は自分の手のひらを見つめた。
「あの飛王天と言う男、私が今までに診てきたデラスターとは違う。デラストの力の流れが、頭に集中しているのだ。数を操る能力と言ったが、それとは恐らく無縁、能力自体とは全く無関係の何かが・・・」
「・・・施されている?」
可朗が言葉を補った。雷霊雲はすぐに可朗の顔を見た。
「私の能力ですら、デラスト本体の構造に触れることはできない。だが彼の身体の内側に、『デラストに対する改造』を施すためにつけられたと思われる、無数の穴・・・いや傷を確認することはできた。どれも丁寧でない」
可朗は息を飲んだ。
「高血種族を収容する目的も、薬を作るためだけとは限らないかもしれないぞ」

「で、」
加夏聡美とその手下、亜単巧太郎・玄鉄は、柱に縛り付けられていた。
「なんですの、この状況は・・・なんかデジャヴ」
目の前に立っていたのは、君六・エルデラの二人だった。先にエルデラが口を開いた。
「さて、お前達の組織について、詳しく教えてもらおうか」
「デジャヴですのー!」
聡美は叫んだ。
「お嬢様落ち着いて!こいつ、お嬢様の魅惑の美貌が明らかに通用してません!殺しにかかる目してます!」
「俺達の一族を、俺達の家族を、あんな目に合わせて、ただで済むと思ってるのか?」
エルデラが腕を鳴らした。
「わたくしは庶民が普段どんなくだらない生活を強いられているかを知りたくて、お祖父様のお知り合いである飛王天様の元にお邪魔してただけですのよ!わたくし達は無実ですし、飛王天様のお仕事の詳しい事は何も存じ上げませんわ!」
三人疑り深く見下ろすエルデラの後ろから、カレンが歩いてきた。
「兄さん、もういいんじゃないでしょうか。この人達もこう言っている事ですし」
「で、でもカレン・・・」
カレンの方に振り向いたエルデラの顔からは、一瞬にして殺気が消え去った。
「この人達をこれ以上縛っておくのはかわいそうですし、一方的に質問するより、一緒に答えを出して行く方が私はいいと思います」
カレンはエルデラと三人に笑いかけた。
「そ、そうだなあ。確かにカレンの言う通りだな。よし君六、ロープ切れ」
三人は柱から解放された。
「わっほー!自由だー」
ロープが切られると、巧太郎は真っ先に飛び出した。
「あっ、こら、はしゃぐな!」
「ふう・・・紛れもないシスコンで助かった」
「何か言ったか!?」
座り込んだままつぶやいた玄鉄はエルデラに凄まれた。
「じゃあ兄さん、私みんなのお昼作ってきますね」
そう言ってカレンは部屋を出た。同時に走ってきた奥華にぶつかった。
「ネロっち、おはよ!」
「あれっ?奥華ちゃん、おはようございます。気分良くなりましたか?」
「うん、寝たらすごいスッキリした!」
「それはよかったです。昨日はあんなに落ち込んでたから・・・」
奥華は一瞬固まったが、それをごまかすようにしゃべりはじめた。
「あは、そんなに心配しなくてもいいんだってば!それにもうお昼でしょ?寝すぎちゃった、一緒にごはん作ろう!」
「そうですね、一緒に頑張りましょう!」
カレンは奥華のごまかしに気がつかなかった。

「あー!まったくドタバタしおって!こっちは気を遣って部屋を分けてやった上に空まで飛んどるんじゃぞ!少しはワシの事も考えて欲しいわい」
ドッペルは空に浮かんでいた。飛王天達の使っていた飛行機を模した形に変身していたが、それより一回り大きかった。
「・・・ところで天希、さっきから何をやっとるんじゃ?」
「ん・・・」
はじめは戦闘の特訓などをしていた天希だったが、外に出てドッペルの上に登ってくると、座り込んでひたすら手を握ったり開いたりしていた。
「外は風が強いぞい、突風でも吹いたら飛ばされてしまうぞい」
「技のコツを探してるんだよ」
「反応がワンテンポずれとるぞ・・・」
「謙さんと別れる時、じいちゃんが昔使った技って言って、俺に教えてくれたんだ。じいちゃんの技は、デラストの力を『握る』技だって・・・」
「それだけかい!たったそれだけのヒントでお前のじいちゃんが使ってた技なんて分かるわけないじゃろ!それよりも、自分の戦い方で自分らしく戦えい、天希!」
「ん・・・」
その後もしばらく天希はドッペルの上に居座り続けた。
「まったく・・・ひい、それにしても飛び続けるのはいいかげん疲れるわい。せめて・・・」

奥華とカレンと可朗は台所で昼食を作っていた。
「可朗、お米足りない!あの三人もいるんだよ!」
「分かってる!でも出しにくいんだよ、僕のデラストは稲じゃなくて木を作るためにあるんだから」
奥華はたけた米を盛ろうとしたが、少し考えてからカレンにしゃもじを渡し、箸を並べにいった。忙しそうだが元気な奥華の顔を見たカレンは、安心しながら盛り付けをしていた。
奥華は右手だけで箸を並べ終えると、すぐに戻ってきてカレンの横についた。
「なんか不思議だね、こうやってネロっちと一緒にごはん作ってると、前からずっと友達だったみたいな感じがする」
「そうですね・・・とっても不思議です」
カレンと奥華は笑いながらそう言った。そして奥華が野菜を盛り付けようとした時、カレンの方から開いた。
「そういえば奥華ちゃん、昨日の夜、誰と電話してたんですか?」
奥華の手が止まった。持っていた皿が落下し、鈍い音を立てて地面に転がった。
「うそ・・・あたし、誰かと電話してた・・・?」
奥華は震えながらカレンの方を向いた。さっきまでの明るい表情を覆い隠すような不安の表情を見たカレンは、思わず自分の口を抑えた。
それとほぼ同時に、天希の叫び声が上から聞こえた。
「来るぞ!」
次の瞬間、部屋が揺れと同時に大きく傾き、外から爆発音のようなものが聞こえた。

「なんじゃ、今のは・・・」
陸地を抜けたドッペルは、海の上に降りて一休みするつもりだった。しかし、突然飛来し爆発した物体の方を見てそれどころではなくなった。天希は立ち上がって辺りを見回していた。
「バカ、早く陸に戻れ!」
天希がドッペルに言った。
「何じゃ、一体何があるというんじゃ、天希!」
天希は物体が飛んできた方角を見るように目を細めた。しかし水平線上には何の影もうつっていなかった。
「父ちゃんだ・・・!」

「峠口大網」前編

今から42年前、一人の男がこの世に生を受けた。一部の人間は、『神の過ち」という、とんでもないスケールでこの瞬間を誇張するのだが、その男はあくまで人間であって、怪物でも鬼でもない。ただ、限りなくそれらに近いだけなのだ。

「大網、また友達を泣かせたのか!」
峠口大網。今は海賊として世界の海から珍しい者を盗み回っている。峠口真悠美、またの名をエスタクロスという妻もいる。この男にも、少年時代はあった。一応。
そして私の名は峠口琉治。このころはまだデラスト・マスターとして活躍していた。私の息子である大網は、このころからすでに扱いに困っていた。当時から現在に至るまで、一度も改心をしなかったのも不思議だが、逆に言えば、生まれながらに恐ろしい人間であるというのも不思議だった。親の方から何をしてやっても喜んだことがない。幼稚園の頃の方がよく、同じ組の友達を泣かせていたが、小学校二年にもなると、『泣かせる」という言葉が幼稚だと思ったのか、そういうこともあまりしなくなった。もっとも今回は、相手が女の子だったから、気迫にやられてしまったのだろう。実際、こいつは、小学生とは思えないようなオーラを漂わせていたらしい。。ただ、大人の目を見ようとしないので、その真の威力は分からなかったのだが。
大網は、私が振り向いたときには、すでに階段を上って、自分の部屋に向かっていた。

大網には、ある障害があった。小学校の途中までは大したこともなく、その後もそれとは気づきにくかったのだが、大網の体の成長は、途中で止まってしまっていたのだ。だから、現在もそれを補うスーツを中に着ていて、顔は年齢相応だが、背は小学校の時のまま伸びていないのである。当時も、迫力はあるくせに身長が低かったので、『小さい」とか『背が低い」と言われるのが一番嫌いだった。他の悪口を言われても、彼の耳には全く届かないし、デラストの実力者である私からの遺伝なのか、殴られても必ず、その場で三倍にして返していたという。他の生徒よりは腕が短いはずだから、まず反射神経は相当のものだったのであろう。いずれにせよ、それが
喧嘩につながることはほとんどなかった。一つはそのオーラであり、また、その姿と力のギャップも、ほかの生徒にとっては驚異だったであろうし、私の孫・天希のように、デラストに憧れる者なら、余計手を出さなかっただろう。いくら親の言うことを聞かなかろうと、あいつはデラスト・マスターの息子なのだから。
それでも大網を怒らせたときは、ただではすまなかった。普段の大網は、何もいわずに険悪なオーラでこちらを睨むだけで、戦いは終わるのだ。しかし、それを超えてしまえば、こちらも泣いて済むものではない。小学校の時は一人だけで済んだのだが、最後まで彼をバカにし続けた生徒がいて、数日後、大網に顔を殴られて入院した。たった一発のパンチだったらしいが、鼻を折られ、前歯は砕け散っていたそうだ。その日、大網が拳に石を入れていた可能性は高いらしい。いずれにせよ、帰ってくるなり、私の目が届かないうちに、自分の部屋に救急箱を持って閉じこもってしまったのだ。
一つ悟ったことがあった。私の蔵書がたまになくなっていることがあった。大網は私の手元から難しい本を持ち去って、それを読んで、幼いときから世界を理解し始めていたのだ。いくら国語の天才と言われる峠口一族でも、ここまでやった者が私の祖先にいるとは思えなかった。
そんな彼に、私が知る中で唯一の友ができた。それが、アビス・フォレスト君だった。
二人が同じクラスになったのは三年の頃だが、当時のアビス君はすごく友好的な感じがして、『魔人族」だからという理由で嫌われさえしなければ、今に限らず、このころもいい人間でいたかもしれない。しかし彼の、相手を理解し友好的になる力は、当時の彼には強すぎたのかもしれない。私ですら分からなかったこと、大網が一体何を考えているのかを、アビス君は理解してしまったのだ。彼は大網とは逆に、どんな気持ちがこもっているにしろ、いつも笑っていた。当時は優しい笑いだったのが、大網と仲良くなるにつれて、あざけるような笑いに変わっていった。ふたりして、この世の人間を見下していたのだ。このころは大網は滅多に家にいなかった。めのめ町は隠れるところや、秘密基地にできそうな所はいくらでもある。ふたりして町の中を飛び回っていたのであろう。
さて、学校内の話に戻るが、ここでアビス君の事も話しておこう。彼の場合は、ふつうに喧嘩し、その横でいつも大網が、何もいわずに傍観していたという。喧嘩事に関しては、お互い手を出すことはなかったらしいが、大網の場合はさっき話したとおりで、もし相手が泣きながらかかってくれば、攻撃を受ける前に、額を押してたおし、相手が悔しさにもがいている間に、どこかへ消えてしまうらしかった。ただ、アビス君は、少しながら大網から『喧嘩術」を教わっていたらしく、自分の負けが確定したときはわざわざ『ギブアップ」と白旗を振り、喧嘩で泣く事はなかったらしい。もっとも、教えた本人は負けたことがなかったので、この戦略は使わなかったのだが。
いや、『それまで」はヤツを止められる生徒はいなかった。めのめ町の学校は、比較的学年と学年の間にある壁が分厚いといわれるから、上の学年も手を出すどころか、そのことについて知らない人間すら多かったらしい。だが、ヤツが五年生になり、アビス君と一緒に、六年生の廊下を歩いていた日だった。アビス君が先にでていて、大網と話しながら歩いていたらしい。前の六年生とぶつかった。そいつもたちの悪いヤツだったらしく、吠えるような声を出しながらアビス君をにらんだという。しかし、どんな戦い方をしたのかは分からないが、結果は二人組の圧勝だった。おそらく1分もたたぬうちに決着がついたのだろうが、その直後、相手の後ろから、ある男がやってきたのだ。連れも二人いた。
「ふうん、こいつが噂の、生意気な五年か」
そいつは、対してイカツい顔ではなかった。むしろ美男子とは呼べなくもなかった。体格もガッチリしているのではなく、どちらかというとやせている方だったらしい。その男の名は具蘭田陽児。世の中で唯一、大網に恨みを持たせた男だった。
「俺様を差し置いて、好き放題暴れてくれるとはな・・・仕方ねえ、俺様と愚民との力の差を、見せてやるか・・・」
「陽児さん!」連れの二人が叫んだ。
「チッ、何だよ、六年だからって威張るんじゃねえよ!」アビス君が前に出たが、その相手をしようとしたのは連れの二人だった。
「お前が峠口大網か」陽児はそう言った。すると、彼は大網の目ですらとらえられないスピードで、パンチを繰り出した。
その拳は、大網の額を揺らした。大網の体は後ろに反れた。戦おうと構えていたアビス君は、その音がした方向へ振り向いた。が、その光景を見ると、目を見開き、顎がはずれるくらいに口を開けた。
大網は、背中を床に打ち付けた。その時も音がし、廊下に響いた。陽児はニヤリとしながら、腕をおろした。
「だ・・・大網!」
陽児ら三人組は笑いながらその場を去った。アビス君は大網を起こそうとしたが、大網はすぐに自分で立ち上がった。
それから十五年後、大網は陽児へのリベンジを果たすのだが、その話は後で出てくるだろう。
その時の一撃を、大網は忘れなかった。

・・・ここまではアビス君が前に来たとき__天希がデラストを手に入れたときとは別の、もっと昔__に、話してくれたことをふまえてまとめてみた。次からは、大網の妻、川園真由美の話、それから私の体験もちょこっと入る・・・

大網とアビス君は中学生になった。周りからの評判はもちろん悪かった。だが、クラスに入ってみると、その評判のおかげで、下手に暴れる輩は少なかった。
中学時代は、大網以下の輩が、影で弱者をいじめているという噂が入るだけで、大網たちに対し直接喧嘩が関係することはほとんどなかった。
このころ大網は陽児のことしか頭になかったが、同時にアビス君もある人のことで頭がいっぱいだったらしい。その人こそが、川園真悠美だったのだ。彼女は二人よりも一つ上の学年だった。
アビス君の恋が原因で、二人は一度決裂した。アビス君が夢中になっているうちに、大網は彼の元を離れたのだ。お互いが独りでいる期間は、短いようで長かった。そう感じさせる原因は、大網の方にも恋話が回ってくるというところにある。
といっても、恋をしたのは大網ではなく、ヤツが二年生になったとき、そう、今の天希と同じぐらいの時に、新入生として入ってきた、一年生のアルマ・バルレンだった。彼女の恋はほとんど一目惚れだった。アビス君でさえ近づけるのがやっとなのに、女子とくれば、その距離はどれだけ離れているか分からない。大網はいつも無口で、自分の世界より外を知ろうとしていないように見えるが、実は、アルマのことで一番最初に気づいていたのは、大網本人だった。
アビス君の話では、大網は人間の感情を読むのが得意らしい。目を合わせなくても、行動でその人間が行動している目的や意味を即座に推測してしまうらしい。アビス君は、大網に直接そういわれたわけではなく、横から行動を見ていてそう思ったらしい。私は、自分にそういった能力があるとは思っていなかった。時々、本当に自分の子供なのかと疑うときさえある。
自分の子供と言えば、弟の二郎も一つ下で、バルレンちゃんと同じクラスだった。二郎は中学生になってから、兄の行動を観察するようになっていた。
「兄さん、またアルマさんに後を付けられてるみたいだなあ・・・」
二郎の性格は大網とは全く違った。真面目で、よくしゃべり、ニュースは口に出さずに入られない、といったような感じだった。アビス君とは仲がよかったそうだが、大網は兄弟喧嘩とか、争いごとの前に、二郎のことを弟としてみているようには見えなかった。しかし二郎は、兄の良いところをよく挙げてくれた。大網とはまた別の意味で、人を見る目が優れていた。成績も良かったのだが、実は大網も、人道を歩んでいれば、天才として認められてもおかしくないはずの、頭の切れる男だった。ただ、学校の勉強に対しては、態度でノーと言い、目にもかけようとしなかった。呼び出しをくらったり、居残りを命じられても、大網は全く動じなかった。すでに、
そういった罰を平気で乗り切るほどの精神力と頭脳が、大網には備わっていたかもしれないのだ。
やがて、アビス君の方から大網の所に戻ってきた。ただ彼は、真悠美君が卒業することに焦っていたのだ。
『真悠美君」と呼ぶのは、彼女が当時からよく私の家に寄ってくれていたからだ。私をデラスト・マスターとして尊敬してくれ、「琉治様」と呼んで家に上がり込んでくることがしばしばあって、そのうち大網に近づける第二の人間になっていた。我々峠口一家とは、このころから親しくなりつつあった。
真悠美君がとうとう卒業してから、アビス君は元気がなくなっていたらしい。あまりしゃべらないのは大網にとって有利だったのかも分からない。ただ、アビス君は大網に比べると成績は悪いわけでもなかったのだが、落ち込んだせいでテストの点は下がる一方だった。
結果として、二人は同じ高校にはいることになった。真悠美君は成績優秀な方だったので、上の方の高校で、すでに進路を決めていたという。が、恐ろしいのはアルマちゃんだった。私もあることがきっかけで、つい最近会ったのだが、見かけは臆病な反面、病的な執念深さを持つ性格だったという。実際、成績は悪くなかったのに、大網を追いかけるために、同じ高校に入ったというから驚きである。
大網は高校になると、また家にいることが少なくなった。真悠美君が心の内をつくような話し方をするのにうんざりしたのかもしれない。彼女は相変わらず私の家に通っていた。大網も大網で無口だが、真悠美君も真悠美君で、何を話すときもだいたい笑っているから、二人とも何を考えているのかは全く予想がつかない。ただ、真悠美君が大網と話しているのをのぞいたとき(といっても、しゃべっているのは真悠美君だけで、大網は相槌すら打っていなかったが)、真悠美君の言葉を聞いて、成る程と思ったことがいくつもあった。彼女も比較的、大網の心の内を捕らえていたのだろう。逆にそのせいで、大網は真悠美君のことがいやになったのかもしれない。
陽気な性格も、大網にとっては苦手だったし、彼女以外で峠口家の生活に変化はなかった。本人も自分のせいかもしれないと言っているくらいだ。
「あれ?琉治様、今日も大網君いないんですか?」
二郎の方は明らかにシャイなところがあったので、真悠美君が来るとすぐに自分の部屋へ逃げ込んでいた。
真悠美はこの頃から大網のことが好きだったのかもしれない。ただ大網同様、そういう感情を表に出そうとせず、誰にでも同じように明るく対応していたので、本心は分からなかった。
しかし、それと思われるのが次の行動だった。
ある日、真悠美君はとうとう、大網の学校へ直接きたのだ。その学校自体にも用はあったのだが、わざわざ大網に会いに行ったのだ。
「あ、大網君」
その時にはもちろんアビス君も大網と一緒にいた。
「まままま・・・真悠美先輩・・・?」
真悠美君はこのときは急がなければならなかったそうで、会うだけでも後で遅刻しそうだったので、話はできなかったらしい。だが、その場ではそれだけで済んだのだが、周りではいろんな事が起こっていた。
まず、アビス君は、その様子を見ていて、真悠美君が大網に近づこうとしてることにうすうす気がついたが、本当にそうなのか分からず、そのことでショックを受けるのは遅かった。そのため、先に別の驚きが彼を襲った。
真悠美君が走ってその場から離れていったとき、その先にいたのが、なんと具蘭田陽児だったのだ。偶然ではなく、視界から遠ざかっていくときの歩き方は、二人がつきあっているようにしか、アビス君には見えなかったらしい。実際そうだったのだが、真悠美君が、自分でもなく、大網でもなく、あの陽児を選んだのが、ものすごいショックだった。
さらにもう一つ、真悠美君本人は、もしあのとき時間があっても、その場には長くいない方が良かったかもしれない、といっていた。理由を聞くと、その後ろから、会る一人の女子が、恨めしいような目でこちらをのぞいていたからだという。それがアルマ・バルレンだった。彼女も真悠美君の行動は怪しいと思っていたらしい。さらに、彼女には陽児の姿は見えていなかったらしい。
その日の夜、これは私が見たことがほとんどだが、大網は珍しく家にいて、それでも部屋の中に閉じこもっていた。私は、いつも外にいて、ろくな飯を食っていないであろう大網に、夕飯を作っていた。その時、チャイムが鳴った。私はドアを開けた。
「大網君、いますか?」アルマちゃんだった。
もし彼女が、二郎から聞いていたようにおどおどしているような、臆病な感じであれば、私だけでも暖かく出迎えたり、高校では離れてしまった二郎を呼んでまた会わせるのも良いと思っただろう。だが、正直言って、このとき私は、彼女の表情に圧迫されそうになった。
おどおどしているわけでもない、陽気でもない、その時の彼女の目には、光が射し込んでいなかった。まるでロボットのように、ストレートに「大網君、いますか?」と言われた私は、正直言って、少し怖かった。デラスト・マスターとして戦うときに、まれに感じる怖さとは、全く別の物があった。私は氷付けにされそうな気分だったが、すぐに大網を呼んだ。すると、いつもは呼んでも部屋から出てこないのだが、アルマちゃんの名前に反応したのか、ゆっくりとドアを開けて、玄関の方へ歩いていった。
冷徹な目と冷徹な目が向かい合った。しかし、大網が来たせいか、アルマちゃんの目は再び光を取り戻しかけていた。私は台所に戻りつつ、その様子を見守っていた。
「大網君、その・・・私、大網君の好きなあげもちを作ってきたんだ、よかったら食べてください」
私は耳を疑った。大網はあげもちが好きだったのか。しかも、親の私は知らずに、本来ならヤツも相手にしないはずの人間が知っているとは。普段から家にいないのだから、私が知らないのはもっともだが。
「・・・ど、どうぞ・・・」
そういって、アルマちゃんは大網にその箱を差し出した。しかし、大網は素直に受け取ることはなかった。その時の光景は、私にとってもショックなものだった。
アルマちゃんの持っていた箱は宙を舞い、床に落ちてつぶれた。そして、悲しそうな顔に変わったアルマちゃんの前で、本来ならアビス君の前ですら話そうとしない大網が、口を開いたのだ。
「二度と俺に話しかけるな」
玄関のドアがゆっくりと動き始めた。
「大網ィ!!」
私は怒りをあらわにした。なぜ怒ったか、それを言い表すことはできない。だが、とにかくそれは、大網がとった行動に対する怒りだった。アルマちゃんが私の行動を見ていたのかは分からない。しかし、私が玄関の前まで走ってきたときには、玄関はもう閉まっていた。
私は大網の頭をにらみつけた。しかし、大網は玄関の方を向いて突っ立ったままだった。
「大網・・・お前・・・」
私はもう一度言ったが、同じ事だった。私はあきらめて料理に戻った。そのあと、大網も部屋に戻っていった。二郎を呼んで夕飯にした。大網は呼んでも来なかった。食べ終わったあと、私はもう一度玄関の前まで来た。さっきあった箱はなくなっていた。ただ、次の日にはゴミ箱の中に見かけた。中身は空っぽだった。大網が食べたのかどうかは分からない。あとで冷静に考えてみると、あのとき大網がしゃべったということ、あれがせめて、ヤツにできる最大のことだったのではないか。大網は気づいていたのだろう。そして、自分の声を聞かせること、それがヤツからの最大のプレゼントだった。最大の、別れのプレゼントだった。
それ以来、アルマちゃんと大網は会ってないはずだ。二人ともこれから、修羅の道を歩んでいくことになるのだ。唯一の相違点と言えば、アルマちゃんは正義、つまり家族や人のため、大網は悪、つまり自分のために、そうなっていったことだった。

もちろん大網は成績の関係上、大学に行くことはできるはずがなかった。二郎は公立、真悠美君は国立の大学へ行った。アビス君は専門学校へ行ったらしい。具蘭田陽児とアルマちゃんについては、誰もそれ以上語らなかった。

大網の学生生活は終わった。一体それは、ヤツにとって有益なものだったのであろうか。いずれにせよ、これからヤツの、海賊としての生活が始まるのだ・・・

第三十八話

__「行くぜ君六!」
「合点!」
天希と君六は飛王天の方に向かって前進し出した。
「無駄な事。君達の技など私の前ではデータに過ぎないのに」
飛王天は後ろに下がり、パソコンを打つように指を動かしながら、自分の作り出したバトルフィールドを見渡した。天希はすぐに飛王天との距離を詰めに走ったが、飛王天からはその様子を捉える余裕があった。彼は再び空中に足場を作り、階段のように昇っていった。
「てやっ!」
飛王天が頭上を通り過ぎようとした瞬間、天希は上に向かって手をかざし炎を噴射したが、同じように飛王天が下に向かって手をかざすと、炎の先は飛王天に当たらず、数字になって散ってしまっていた。
「ふふ、何度やっても同じ事だよ!」
「そうかい、じゃあこいつはどうだ」
そう答えたのは君六だった。飛王天は君六の方から遠距離攻撃が飛んでくると思って身構えたが、彼に当たったのは落雷だった。
「~っ!?」
一瞬にして喰らった痛恨のダメージに、飛王天は声を発するタイミングすら失って足場から落下した。ここで着地がもう少しうまくいっていたら、天希の蹴りを避ける事はできたかもしれない。
「ぐおっ!」
飛王天は飛び退いたが、wその先にいた君六に引き寄せられた。君六は何度か手を叩くと、向かってくる飛王天に平手連撃を喰らわせ始めた。
「ちぇりゃりゃりゃりゃりゃりゃ!」
君六は最後に力を込めた平手突きを一発喰らわせた。飛王天は突き飛ばされた。さらに、後ろからは天希の頭が迫ってきていた。頭突きは飛王天の背中に直撃し、飛王天は今度は君六の頭をかすめて飛んでいった。
「ああぁ」
飛王天はなんとか壁に張り付いて止まった。
「よっしゃ!」
天希と君六はハイタッチしようとした。しかし、双方のその手に数字が浮かんでいる事に、二人とも気がついた。
「うえっ!」
そうしている間に、可朗が飛王天に向かって攻撃していた。蔓で叩きつけようとしたが、飛王天の作った数字の盾にそれを防がれた。
「くっ」
飛王天がやや息切れしている様子を見ると、可朗は続けて攻撃した。そこに君六の雷撃、天希の火炎放射が加わった。
「ぐううっ!」
盾が崩れる音が聞こえ、3つの攻撃は壁まで達した。
「やったか?」
攻撃の止んだ中から現れた飛王天は、かかしのように立ったまま動かなかった。俯いていて表情はわからない。3人は飛王天の方を睨んでいたが、向こうは全く動く気配を見せなかった。可朗は目線を外し、周りをキョロキョロした。そして、気がついた。
「奥華!」
奥華は地面に倒れていた。可朗は思わず叫んだ。天希と君六も驚いて可朗の方を向いた。
「奥華、一体どうし・・・」
走りだそうとした可朗の体に数字が浮かび上がり始めた。足元に浮かんでいた数字が0になったのだ。可朗はその場に転げ、立とうとするも苦しくて立ち上がる事ができなかった。謙曹の時と違い、可朗の体に浮かび上がった数字は徐々に9に近づいていた。
「・・・く、くくく、これで揃った」
飛王天はゆっくりとその足を進めてきた。天希と君六は身構えた。飛王天の手の上には、赤、緑、黄色、青の4色の数字が浮かび上がっていた。
「自分の能力に攻撃される気分を味わいたいかい?」
「そんなもの、とっくに味わってるぜ」

建物の内部では、悪堂が闘いの様子を見下ろしながら、爪を噛んでいた。
「一体、一体何をモタモタしているのだあの男は!こんなガキ共相手に!飛王天よ、お前は仮にもスエラ様に見込まれてここにいいる男だぞ、その実力を・・・」
悪堂は気配に気づいて振り向いた。布を纏った者が、部屋の入り口に立っていた。悪堂は少し声を荒げながら言った。
「わざわざ来なくてもいい!準備が済んだのならあなたたちは先に本部へ向かいなさい」
布を纏った者は静かに頷いた。悪堂はすぐに窓に張り付いて、闘いの様子を見た。しかしすぐにまた振り向いた。布を纏った者の反応がいつもと微妙に違って見えたからだ。そして、それは当たっていた。
「私・・・?」
悪堂はピタッと動かなくなった。振り向いた先にあったのは布を纏った者の姿ではなく、自分自身の姿だった。悪堂は鏡でも置かれていったのかと思ったが、どうもそうではないようだ。
「お前さんが、黒幕か」
悪堂に化けたドッペルが言った。
「何者です?」
悪堂は声を低くして言った。
「なあに、お前さんほど名のある者ではない。じゃが、世間を騒がせている張本人となれば、いささか許し難くてのう」
「我々の活動は我々の目的と責任に基づくもの。あなたたち部外者とは関係ないのです。口出しをしないでいただきたい」
悪堂は言い終わると同時にめまいを感じた。その瞬間まで、嗅ぎ慣れていた薬の匂いに気がつかなかったのだ。
「そう言われて、ああそうですかと見過ごすわけにも行かんぞい」
ドッペルが攻撃しようとした時、悪堂はすぐさま鼻と口を手で覆った。そして息を大きく吸い込んだ。途端に、彼の目つきは変わった。
「くっ、醒めたか!」
ドッペルは攻撃する間もなく、パワーアップした悪堂の手に掴まれた。
「おが・・・」
「素顔を見せなさい」
ドッペルは抜け出してその場から飛び退き、距離を置いた。悪堂は細い目で睨んだ。
「見過ごしていれば無事に済んだものを」

「ぐがあっ!」
君六の上に雷が落ちた。一撃目はなんとか耐え、反撃に雷撃を返したが、飛王天に落ちる雷は数字に変わるばかりだった。
「なかなかいいデラストを持ってるね・・・さっきのは効いたよ」
二撃目が放たれた。
「おあああああ・・・」
君六は直立したままだったが、気を失ってしまった。足下の数字は一気に0になり、全身に数字が浮かび上がった。
「君六!」
天希は叫んだ。
「てめぇっ!」
天希は火炎を放って飛王天に攻撃した。飛王天は一歩も動かなかったが、数字すら浮かび上がらないにもかかわらず、全く平気な顔をして立っていた。
「効いてない・・・?」
飛王天の笑みはさらに邪悪になった。周りには紫色の数字が浮かび上がった。
「君のデラストの力はもう読めた・・・そして君の攻撃が通らないようにプログラムも組んだ」
「くそっ」
天希は火の玉を大量に作り出し、飛王天に向かって飛ばした。一つ残らず命中したが、飛王天は動じる気配も見せなかった。
「分からないかな、君の攻撃はもう効かない、そう言ったのだよ」
「なっ、何?」
飛王天は糸をたぐり寄せるように手を動かし始めた。
「君がいくら私に火の玉をぶつけようが、火炎を放とうが、全くの無駄だ。分かったかい?」
「そんなわけねえだろ!」
天希は走り出そうとしたが、後ろから力強い何かに首を引っ張られた。天希は驚いて後ろを振り向いた。
「可朗!?」
天希を捕えたのは可朗の蔓だった。全身の数字が9になった可朗は、飛王天に動きを操られていた。
「そろそろ、おしまいにしようか」
赤い数字が飛王天の周りに浮かび上がると、彼は手の上に炎を作り、それを粘土をこねるように丸め、強く握って圧縮した。そして、それを天希めがけて投げた。
「えっ」
野球のボールほどもないその塊は、天希と飛王天との間を猛スピードで飛び抜け、身動きの自由にとれない天希に直撃して爆発した。
「が・・・」
可朗の蔓はバラバラに吹き飛び、天希も吹き飛ばされて地面に叩き付けられた。天希も気絶し、数字が0になった。
「ふふ・・・ははは」
天希達は全員、戦闘不能になってしまった。飛王天は笑いながら、今回の戦いで得た能力のデータを吟味していた。
「ぬ?」
飛王天は気がついた。倒したと思っていた相手の中に、一人だけ他と違うものがいる。そして飛王天が顔を上げると、その一人は立ち上がっていた。
「おや」
奥華は立っていた。飛王天が首をかしげたのは、奥華だけ体に数字が浮かび上がっていなかったのだ。
「む・・・?まあ、いい」
奥華はうつむいて表情を見せなかった。
飛王天は指を動かした。天希、可朗、君六、謙曹の四人は操られ、奥華の方へ向かい始めた。
「君一人でどうするつもりかな、お嬢ちゃん」
奥華はうつむいたままだった。その2、3秒後、自分の発した言葉が頭の中で反芻されると、突然飛王天は顔を真っ青にした。
「まさか」
飛王天は手を下ろしてしまった。操られていた四人はその場に倒れた。奥華の足下の数字は、0にならないまま止まっていたのだ。飛王天は目を見開き、全身を震わせていた。
「お、奥華・・・」
思わずそう口にしたが、飛王天は今の言葉を取り消そうとするようにブツブツ言った。
「なぜだ」
全く反応を見せない奥華の姿に、飛王天は後ずさりした。
「なぜお前が・・・」
その時、ガラスが割れるような音とともに数字の壁が破壊され、エルデラとカレンが突入してきた。奥華の姿は、カレンの目にすぐに飛び込んできた。
「奥華ちゃん!」
カレンはすぐ奥華の方に走っていって抱きついた。その瞬間、奥華は正気に戻った。カレンは心配そうな表情で奥華の顔を見つめた。
「奥華ちゃん、大丈夫?」
「ネロっち・・・?」
奥華はあたりを見回した。その時初めて周りの状況に気がついた。奥華は飛び上がりそうになった。
「天希君!?みんな!?」
「一体・・・何があったのですか?」
エルデラは飛王天の方ににじり寄っていった。飛王天は混乱している様子だった。
「おい」
飛王天は震えていたが、エルデラの方ではなく、ずっと奥華の方を見ていた。エルデラは飛王天が戦える様子でないのを分かっていた。
「なぜだ・・・なぜお前が!」
飛王天の声はだんだん荒くなっていった。
「なぜお前がここにいるんだ!?」
飛王天は奥華を指差した。奥華は驚くと同時に、怖くなってカレンを強く抱きしめ、小さい子供のようにカレンの後ろに隠れた。
「お前さえ、お前さえいなければ!」
飛王天は隠れる奥華を追いかけようと踏み出したが、エルデラが袖を引っ張って止めた。その勢いで飛王天はエルデラの顔を殴った後、数字の壁を消して逃げ去るように走り出した。かと思うと、地面に膝をつき、絶望した表情でふたたび奥華の方を向いた。カレンは状況が分からず、奥華の顔を覗き込んだ。
「奥華ちゃん、一体何を・・・」
「知らない!あたし何も知らない!」
奥華は震えながら、カレンの服をいっそう強く握りしめた。
その時、ビルの上の方のガラス窓が割れて、悪堂の姿をしたドッペルが落ちてきた。
「あ~あ~・・・!」
ドッペルは飛王天の頭にぶつかった。飛王天はその反動で一度立ち上がったが、まもなくその場に倒れ込んだ。
「飛王天!どうやらあなたまでしくじったようですね。この事は本部に報告させていただきますよ」
ビルの上から本物の悪堂が叫んだ。暴風とともに飛ぶ乗り物が現れ、悪堂はそこに飛び乗った。乗り物は飛び去っていった。
「・・・」
すると、今度は反対の方向から雷霊雲が走ってきた。
「おーい、カレン!」
「先生!」
雷霊雲は周りを見て、状況を飲み込みながら言った。
「ここは危険だ。まだ他の者が襲ってくるかも分からない。退散して天希達を治療しよう」
「そういう事ならワシにまかせんしゃい」
そう言ったのは、悪堂に化けたドッペルだった。しかし、他からは悪堂にしか見えていなかった。
「あれ?お前さっき飛んでいかなかった?」
「あ、これは失敬。ワシはドッペルと申す者でな」
そう言うとドッペルは、先ほど飛び去った飛行機と同じ姿に変身した。
「うわっ!」
「はよ乗れい!」
一同はドッペルの中に乗り込んだ。飛行機になったドッペルは空中に浮き上がると、飛王天のアジトを後にした。

「エルデラ~っ!超ひさしぶりじゃねえかーっ!」
「天希~!何年ぶりだろうな!」
天希とエルデラはお互いの再会を喜んでいた。
「フッ、昔の友達に会えただけでそんなにはしゃぐ・・・ぶへっ」
エルデラの拳が可朗の顔にめり込んだ。
「可朗!何でお前みたいな奴までいるんだよ!」
「そ、それはこっちのセリフだモガ」
「てめえ・・・カレンに何かしたら俺が許さねえからな」
「何で僕をそんなに疑うんだよ!」
「お前昔から変な奴だっただろ」
「ふ・・・」
「エルデラ、お前めっちゃでかくなったな!」
「天希もな!ん~?でも俺に比べれば全然ちっちぇえな!」
「言ったなコイツ!」
3人ははしゃいでいたが、向こうの部屋から叫び声が聞こえると、3人ともピタリと止まった。

「貴様ぁ!」
謙曹は戦意の抜けきった飛王天を前に興奮していた。飛王天の胸ぐらを掴んで叫んでいた。
「安田さん落ち着け!」
雷霊雲は謙曹を後ろから羽交い締めにして、針を打った。謙曹の体から力が抜け、飛王天を放した。飛王天は半分意識が飛んだような様子で、ベッドに座りこんだ。
「今この人は戦える様子でも、組織を率いる様子でもない。それにあなたも正気でない様子だ。今は手を出さないほうがいい」
そこに、声を聞いたカレンが駆けつけてきた。
「先生!一体どうしました?」
「あ、いや。大丈夫だよ。それより奥華は?」
「奥華ちゃん、疲れて寝ちゃいました」
「そうか・・・ん?あ、それはよかった」
雷霊雲は謙曹を押さえながら、飛王天の様子を見ていた。飛王天はほぼ放心状態のままだった。
「そうだ・・・とてもそんな事をやってのける状態じゃない。一体、何があった・・・?奥華、お前は一体、何をしたんだ・・・?」

第二章 大会・飛王天編 おわり

第三十七話

「あのガキどもめ・・・性懲りも無く」
建物の4階の窓から、薬師寺悪堂は戦いの様子を眺めていた。
「我々ヒドゥン・ドラゴナの力を甘く見ている。飛王天よ、我々の力を思い知らせてやるのです・・・!」

「その数字は・・・私が君達に割り振った『制限時間』だよ。一定の間隔で減って行き、そして0になった時には・・・ふふふ、その時が楽しみだね」
飛王天の更に醜悪な笑みを顔に浮かべていた。皺という皺が眉間に集中し、吊り上がった口元と大きく開いた口には、先ほどまでの優しい表情を食って殺したかのようだった。天希達は息を呑んだ。君六は震えていた。
「さあ、ここからが本番だ」
飛王天は大きく飛び上がった。天希は彼めがけて炎の柱を伸ばしたが、その柱は彼に届く手前で赤い数字に変わって分散してしまっていた。飛王天は自分の作った数字の壁まで飛び、そこにつかまった。彼が手を開くと、先ほど天希の炎から変化した赤い数字が浮かび上がった。
「『火炎』のデラスト・・・なるほど」
飛王天は地面に着地した。その瞬間、足元に生えていた芝が長く伸びて飛王天はバランスを奪われた。
「よしっ」
可朗はそのまま飛王天の動きを封じようとしたが、飛王天が赤の数字を足元に撒くと、その数字はたちまち炎に戻り、絡みついてくる芝を焼き払った。
「なっ・・・」
その光景に驚く可朗の横を、水流が通り過ぎた。奥華が飛王天に向かって水を飛ばしたのだ。しかし、飛王天はこれも目の前で数字に変えてしまった。
「あれ?そんな!」
「一体なんなんだ、あの能力は」
飛王天は水から表れた数字列を眺めながら言った。
「説明が必要かな」
そう言いながらその数字列を消すと、今度は宙に別の数字列を描いた。すると、飛王天の姿が見えなくなった。
「消えた!?」
可朗は見えない攻撃に備えようとした。が、攻撃を食らったのは謙曹だった。
「うわああああぁ!」
姿の見えない飛王天が謙曹の腕を掴むと、謙曹の体に浮かび上がっていた数字はさらに増え、謙曹に苦痛を与えた。飛王天は徐々に姿を現した。
「私のデラストは数字を操る・・・そしてこの能力はその応用、あらゆるデラストの能力を数字列のデータとして記録し、操る」
飛王天は説明しながら、苦しむ謙曹の方に目をやった。
「さっきは透明化しているこの男に直接触れた際にその能力を『読んだ』んだ。そして今見せたように、君達の飛ばしてくれた攻撃を数字に変えてしまう事も・・・」
「やめろ!」
飛王天の話を断ち切るように、天希の攻撃が飛んできた。飛王天は謙曹から手を離して火の玉をよけた。天希はその火の玉に連なるように突進してきた。飛王天は天希が炎の爪で攻撃してくるところを、後ろに飛びのいて回避した。
「・・・説明の途中だったのに」
天希はすぐに苦しんでいる謙曹の方に目をやった。
「謙さん、大丈夫!?」
その言葉を聞いて、飛王天はニヤリとした。
「そいつはどのみちもう戦えないよ。私が力を吸い取った上に、そいつの『制限時間』はそろそろ0になる」
「何だって」
謙曹の足元の数字は間もなく0になった。同時に、謙曹の体に浮かび上がっていた数字もすべて0になり、謙曹は叫ぶ力もなくその場に倒れこんだ。
「謙さん・・・?謙さん!」
天希は謙曹の体を揺さぶって叫んだが、反応はなかった。飛王天は、やはり醜悪な笑みを浮かべながら、再び口を開いた。
「ほら、他人の心配をしてる場合じゃないんじゃない?君達はまだ元気そうだから、0になった時の威力を溜めるために、制限時間は多めにとってあるけど」
天希は飛王天の方を睨んだ。
「てめえええっ!」
天希の叫び声に君六は驚いて縮こまったが、次の瞬間には顔つきが豹変していた。奥華はそれに気づいた。
「あれ、キミキミ・・・」
「・・・おいおいおい、気づいたらなんだか随分と面白そうな事になってるじゃねえの。この明智君六様が眠ってる間によぉ!」
「いや、キミキミ今朝からずっと起きてたよね」
「へえほう、見たところあのおっかねえ顔した細長い爺さんが敵みてえだな」
「聞いてる・・・?」
飛王天もその妙な光景に目を丸くしていた。
「な、何なんだ、あの子は」
君六は天希の所まで歩いてきて、天希に向かって話しかけた。
「なあ、大将」
「た、大将?俺の事?」
「ああ。大会でアンタの事見た時、こいつは只者じゃねえと思ってた。だから本当はここでアンタと一勝負したかったんだが、宿敵を目の前にしてこの俺とガチンコしてる暇なんてありゃあせんでしょう。お仲間の仇を取るのに一対多は卑怯とは呼ばせませんぜ。この君六、大将の勝利のために加勢させてもらいやすぜ!」
君六は勝手に決めポーズをとった。
「よ、よくわからねえけど、とりあえず一緒に戦ってくれるんだよな!」
君六は無言で親指を立てた。
「よーし。改めて、行くぜ君六!」
「合点!」
飛王天はニヤリと笑うと、さらに後ろに移動した。
「無駄な事。君達の技など私の前ではデータに過ぎないのに」

「す、すげー・・・」
円柱状の数字の壁は、アジトの敷地外からも見えた。
「中央塔より高いぞ、ありゃ」
「ゴチャゴチャしゃべってないでさっさと行くのよ!あの壁が出てるって事は、飛王天様が戦ってるって事なんでしょ!」
「そ、そうです・・・ご存知なかったのですか、お嬢様」
加夏聡美と二人の子分は急いで敷地に入り込んだ。その時、ちょうど倒れていた警備員が目を覚まし、慌てて彼女達を取り押さえた。
「待て!これ以上先へは行かせん!」
「ちょ、ちょっと放しなさい!私達敵じゃなくてよ!」
そう言われて警備員は我に帰った。
「あ、これは申し訳ございません」
「まったく・・・」
そう言って聡美は数字の壁がそびえ立っている方へ向き直った。警備員もそちらを仰いだ。
「な、何だあれは」
「あそこで飛王天様が戦ってるのよ!分からないの?」
玄鉄は横目で聡美の方を見た。
「お嬢様だって知らなかった癖に・・・」
聡美は天希達と飛王天が戦っている場所へ向かって駆け出した。
「あ、お嬢様!」
「もし相手が天希様なら、一刻も早く止めないと・・・!お二人が争っている姿なんて、見たくありませんわ!あのお優しい飛王天様だって、本当は戦いたくないはずよ!」
子分の二人は後を追った。聡美が一番始めに壁までたどり着き、数字の隙間から中の様子を見た。
「・・・え?」
聡美は固まった。
「お嬢様ー!どうですかー?」
子分の二人は聡美を呼びながら走ってきた。聡美は信じられないとでも言うような顔のまま子分達の方を振り向き、壁の方を無言で指差した。
「えっ、何ですか?一体何がぶへらっ!」
巧太郎は何者かに踏みつけられた。その影は再び高く飛び上がり、聡美の目の前に着地した。
「な・・・何?何者?」
「お前達の悪行から、友達と家族を助けに来た者だ」
その影の正体は、エルデラとカレンだった。ひるむ聡美を横目に、エルデラは右手の指を揃えて数字の壁に突きつけた。すると、数字達はたちまちその形を崩し、壁に人の入れるほどの穴を開けた。エルデラとカレンはすぐにその中に入り、辺りを見回した。そこに立っている人間は、彼らを除いて二人だけだった。
「い、一体これは・・・?」

第三十六話

飛王天の所有するアジトの建物は5階建、外には広い敷地とそれを囲うフェンスがある。大会の終わりに現れたあの空飛ぶ巨大な乗り物も、フェンスの内側に2~3機停まっていた。また、入り口には黒い服の戦闘員が2人立っていた。
「・・・おい、そういえば」
片方の戦闘員が、もう片方に話しかけた。
「何だ、また列車の話か、勘弁しろよ」
「いや違う、飛王天様の連れている、妙な布をかぶった連中の話だ」
そこで一瞬、話が止まった。
「あ、ああ!あれか、確かに不気味だ。見た事もない色をした布で全く中の姿を見せようとしない・・・魔人族か?」
「いや、魔人族の大きさじゃなかった。あいつら妙に手足が短い。歩き方も不自然だ」
「そういう病気を持った奴らなのか?」
「わからん。ただ噂では、デラストを持っていないにもかかわらず、デラスターを一方的に打ち破った事があるらしい。ああ見えて並の運動能力じゃないんだと」
「それってやっぱり、デラスターか魔人族じゃないのか」
「・・・実はな、俺は一瞬だが奴の素顔を見た事がある」
「どんな顔だった?」
「少なくとも・・・言って分かるようなモノじゃない。ただ、こう・・・鼻の周りが前に突き出てて、その肌はブツブツしてて・・・」
「やめろ、考えるだけで気持ち悪くなってくる」
「実物を見たときのショックはもっとデカいぞ」
「そうかもな」
その会話が終わったと同時に、背後で小さくフェンスのスライドの閉まる音がした。二人は振り向いた。
「何だ?」
「今誰か居たか?」
入り口の手前にも先にも人の姿はなかったが、すばやく門を開けてフェンスの内側に入った。
「誰かそこにい」
そう言いかけたところで、戦闘員の片方は見えない何かにぶつかった。
「きゃ・・・!」
何もないと思った場所から奥華が姿を現し、地面に転んだ。
「痛っ・・・」
戦闘員はすぐに奥華を取り押さえようとしたが、再び見えない壁にぶつかった。
「全く、さっきから何だ!」
そう言うと、壁の正体が姿を現した。安田謙曹だった。実体を現すと同時に、戦闘員の頭を掴んで投げ飛ばした。もう一人の戦闘員が突っ込んでいったが、謙曹の足に正面から蹴飛ばされて倒れた。謙曹はすぐに奥華の手をとって立ち上がらせた。
「大丈夫かね?」
「なんとか・・・」
「奥華、大丈夫か?」
そこには天希達の姿もあった。可朗は地面に生えている芝を操り、戦闘員を地面に縛った。
「我々が侵入した事自体はおそらくバレている。また見つかっては厄介だ、行くぞ」
天希達は一列に手をつないだ。最初に謙曹が姿を消すと、天希達の姿も次々に消えていった。
「敵が来ても慌てるな。お互いの姿も見えないのだから、ぶつからないようにうまく間隔を保って移動するんだ」
「でもよ、さっきから君六が遅」
「余計なおしゃべりも禁物だ」
「はい・・・」

しかし、謙曹の予想に反して、他の戦闘員は全く姿を見せなかった。
「おかしいな・・・私が一度様子を見に来たときにはかなりの人数がいたものだが」
フェンスの入り口から中心の建物までの距離が3分の2を切った時、件の「布を纏った者」が3人、上の方から建物の扉の前に飛び降りてきた。天希達は足を止めた。
「!」
「あれは・・・」
天希達は手を離して身構えた。しかし布を纏った3人は持っていた武器を縦に構え直し、その場から動こうとしなかった。
「・・・?」
すると、今度は天希達と布を纏った者達の間のちょうど真ん中を中心として、地面に無数の数字が浮かび上がり広がっていった。
「何だこれは?」
数字は彼らの足下に巨大な円を描いて広がり、そこからさらに空中に浮かび上がって筒状の壁を作り上げた。
「それはバトルフィールドだよ、君達と私の」
飛王天はそう言いながら姿を現した。数字でできた円の中心にゆっくりと降り立ち、天希達の方に笑みを見せた。
「飛王天・・・」
謙曹が呟いた。
「姿を消すデラストというのはなかなか厄介だねえ。私の部下の能力じゃ苦戦を強いられるのが目に映る」
飛王天が宙で指を動かすと、ピッ、ピッという電子音がした。
「でも同時に分かっちゃうんだよねえ。君達が束になってかかって来ても私には敵わないっていうのが」
飛王天は子供のような、しかし皺を含んだ笑みを浮かべた。
謙曹が手でサインを出すと、天希達はそれぞれ別の場所に分かれた。
「飛王天よ・・・貴様の悪事をこれ以上許す訳にはいかん。この場で己の愚かさを知ってもらおうではないか!」
謙曹は走り出すとともにその姿を消した。そのままタックルが直撃したらしく、飛王天は姿の見えない謙曹にはじき飛ばされた。
「追撃だっ!」
謙曹がそう叫ぶと、天希が火の玉を飛ばして追い打ちに出た。しかし、飛王天が手をかざすと、飛んできた火の玉は数字となって消えてしまった。
今度は可朗の植物の蔓と、奥華の水の柱が飛王天を狙ったが、飛王天は飛び上がってかわし、空中に指で数字を描いた。その数字は無造作に広がり、飛王天一人が乗れる足場となった。
「一体なんなんだ、あの能力は」
飛王天は手を広げた。
「君達にもあげるよ」
飛王天が指を鳴らすと、天希、可朗、奥華、君六、謙曹の五人の足下に、それぞれ巨大な数字が現れた。
「何だこれ?」
姿そのものは完全に透過して見えない謙曹だったが、足下に表れた数字が影のようについてくるのを見ると、姿を隠す事をやめた。
「ふふふ、これでもう誰がどこにいるか分からなくならないで済むね」
飛王天はうれしそうに言った。
「そいつは・・・どうかな」
謙曹はその場で地面を強く蹴りながらスピンした。すると、足下にあった数字は一瞬で消えてしまった。飛王天は目を丸くした。
「このデラストには、私とともに動くものの方が消しやすくなるという変わった特徴があってね」
謙曹は再び姿を消した。飛王天は飛び退き天希達の攻撃を避けながら、次々と空中に数字を描いていった。その飛び退く方向に謙曹は先回りして、攻撃を繰り出そうとした。しかし、謙曹の拳が当たる前に、飛王天の手が見えないはずの彼の顔を覆った。
「!?」
「目で見えなくなりさえすれば、姿を隠せるとでも思ったのかな」
飛王天が謙曹の顔を軽く突き飛ばすと、たちまち謙曹の服や体の表面に数字が浮かび上がった。
「何だあれ!?」
謙曹の拳は飛王天の頬に当たったが、勢いはなく、当たったところで静止した。謙曹は震えていた。
「デラスト本体をいじるのは難しいけど、デラストと人の接続部分を不安定にさせる事ならできる」
「く・・・」
飛王天は余裕そうに謙曹の前に立っていた。
「謙さん!」
すると、謙曹は余った力を反対側の拳にこめて、思いっきり飛王天の顔を殴り飛ばした。
「ご・・・!?」
飛王天の体は勢いよく飛び上がった。謙曹はその場に崩れたが、体を支えながら叫んだ。
「何をしてる、追撃だ!」
「は、はい!」
天希は地面に転げた飛王天の方に突進していった。しかし、飛王天の体から数字の波が吹き出し、天希を押し飛ばした。
「くあっ」
波が消えて落ち着いたところで、飛王天は立ち上がった。打撃を受けて少し歪んだ顔に、涙を浮かべていた。
「うっ、おうっ・・・あああ」
天希達は攻撃に向かうのを躊躇した。
「おおおおおおおおおおおっ」
飛王天は殴られた部分を押さえて叫び始めた。そして顔を押さえてうつむくと、声はだんだん小さくなっていった。そしてゆっくりと手を顔から離した。表情は一変して、醜悪な笑みを浮かべていた。
「痛いな・・・この痛みは許せない痛みだ」
表情の変わりように、天希達は驚いていた。
「こういうのはとっとと終わらせたいね・・・」
飛王天が指を鳴らすと、天希達の足下についてきていた数字がカウントを始めた。
「え!?何これ・・・」
「それが0になったら・・・さてどうなるのかな」
飛王天は手を広げた。空中に禍々しい書体をした数字の群れが浮かび上がった。