第二十二話

(・・・あれ・・・?ここは、どこ・・・?)
カレンは、暗闇の中をさまよっていた。あたりには暗い紫色の霧が立ちこめ、どこを見ても先には闇が続くばかりだった。
「おーい、カレン、遊ぼうぜー」
「兄さん」
彼女の目には、9年前の兄の姿が映った。いつの間にか、自分も9年前の姿に戻っていた。
「何してるんだよ、早く早く!」
彼女は兄の後を追いかけていった。その先には、両親の姿もあった。
「父さん!母さん!」
カレンは嬉しそうに叫んだ。その瞬間、彼女の目の前にいた三人は消えてしまった。彼女の姿も、元に戻っていた。
「!?」
彼女は恐怖に襲われた。三人のいた場所から、震えながら後ずさりした。そのとき、後ろから男の叫び声が聞こえた。
「うおおおっ!」
カレンは振り向いて、上を見上げた。魔人の姿になったアビスが、闇の中に吸い込まれそうになっていた。
「父さん!」
カレンは手をつかんで引っ張り出そうと思ったが、すでに手が届かなかった。アビスも彼女の方に手を伸ばしていたが、どんどん吸い込まれ、最後には消えてしまった。すると、その場所から、二つの巨大な目玉が現れた。
「・・・ネロ・カレン・・・バルレン・・・」暗黒の中から、古びた床のきしむような声が響いた。二つの目玉は、彼女にそのおぞましい視線を注いでいた。
「まただ・・・またお前は、私の計画を邪魔した・・・いつもそうだ、おまえの母親もそうだった・・・」
カレンは一体何のことだか分からなかった。しかし、母親のことをいわれると、ただ事ではないような気がした。
「あなたは・・・一体、何ですか・・・!」カレンは言った。
「黙れ。声を失ったはずのお前に、ものを言う権利などない・・・」
「私には、ちゃんと自分の声があります!」
「うるさい!私に刃向かうな!私の計画を邪魔すれば、お前だけでなく、お前の兄や、父親も苦しむことになるのだぞ・・・」
その目は彼女を圧迫した。その邪悪なオーラに、彼女は吹き飛ばされた。
「くっ・・・」
「そうだ、苦しみと悲しみ、そして恐怖がおまえを襲うのだ・・・私でさえ、そんな状況に立つのは気が引ける・・・しかし、今はお前のそれを操ることができるのだ・・・私が念じれば、お前はどうすることもできなくなる・・・」
カレンは倒れたまま、起きあがれなかった。彼女に追い打ちをかけるように、その目は彼女の顔に近づいてきた。
「まずお前から動かなければいいのだ、強制的に動きを封じられ、自由を奪われる前に、我々に刃向かうことをやめろ・・・!」
その声は聞こえなくなった。しかし、その響きは闇にこだまし、巨大な目玉はどんどんカレンに近づいてくるばかりだった。彼女は目をそらすことも、閉じることもできずに、その目玉の持つ力に押しつぶされていきそうだった。

「ネロっち、ネロっち!」
カレンは素早く目を開けた。そこにあった二つの目は、さっきまでの暗黒に浮かぶ怪物の目ではなく、心配そうに自分の事を見つめている、奥華の目だった。
カレンは起きあがったが、そこに立っていた奥華と額を勢いよくぶつけて、再びベッドの上に倒れた。
「イテテ・・あっ、ネロっち、大丈夫!?ゴメンね、まだ頭に包帯巻いてるのに・・・」
彼女は天井を見つめたまま、自分の頭をそっとなでてみた。
「・・・だいぶうなされてたみたいだけど・・・・・大丈夫?怖い夢だった?」
彼女は、今度はゆっくり身を起こしながら、答えた。
「・・・大丈夫です・・・もう、起きましたから・・・」
「・・・はは・・・よかった~、だって心配なんだもん、ネロっちにこれ以上何かあったら、絶対みんな悲しむから・・・」
そう言うと、奥華はその狭い部屋の隅に座っている雷霊雲の方を見た。
「・・・しかし、お前もそう見えて意外と無鉄砲なんだな、いきなりあんな技を使おうとするとは・・・これからは無理するなよ」
カレンは少し笑いながらうなずいた。
「しかし、あの手術が終わるまではよく頑張ってたな、気づいてないかもしれないが、お前はこの三日間ずっと寝てたんだぞ」
最初、カレンは雷霊雲が何を言っているか分からなかった。雷霊雲はカレンダーを指さし、そこで彼女は初めて気づき、驚いた。
「この三日で、手術中に頑張った分の疲れを癒したな。それにしても、仲間の顔を見るまで休まなかったっていうのもすごいというか、何というか・・・あ、気にするな、私の偏見だ」
奥華も苦笑いを浮かべた。
「さてと、私はまたお前等のために弁当を買ってこなきゃならん。カレン、お前はまだ、どちらかというと怪我人と言うよりも病人に近い。お前は病院で作られるまずい飯を食わなきゃならない。だが、コイツ等はバンバン食べるからな、特に奥華、お前は見かけによらず・・・」
「それって、私がチビだってことですか~?」奥華は雷霊雲の目をにらみながら言った。
「すまんすまん、よく食う年頃なんだったな、お前らは」
奥華は初めて雷霊雲に勝ったような気がした。彼女は胸を張り、腰に手を当て、勝ち誇ったような態度を見せた。カレンもよく分からなかったが、小さく拍手していた。同時に、彼女は奥華が腰に当てている手が、右手だけだということに気がついた。奥華が取りたいポーズは何となく分かったが、それができていなかったのだ。
「うーむ」雷霊雲はそのまま部屋の外に出た。奥華もそれについていくように、部屋を出ようとしたが、部屋と廊下の境目で立ち止まり、カレンの方を振り向いて、不思議そうに言った。
「ネロっちって、自分でしゃべるときも敬語なんだね」
カレンはどう反応すればいいか分からなかった。が、その前に奥華が微笑んで、またこう言った。
「でも、すごくいい声してるよ、ネロっち。これからもいっぱい話そうねっ」
カレンは微笑み返した。奥華は右手でカレンに向かって手を振り、同じ手でドアを閉めた。

雷霊雲は、廊下を歩きながら行った。
「やれやれ、ここと向こうとの間を行き来するのも楽じゃないんだよなあ」
「だったら、向こうにいればいいじゃないですか、ネロっちの具合も良くなったんだし」
「ならば次はお前の番だな、奥華」
「へ?何がですか?」
「手術だよ、手術」
「なっ、なんであたしが・・・」
「ほう、じゃあそのままでいいんだな、お前のその左腕は」
「え!?こっ・・・これは・・・・・別に、いいです」
「・・・そうか、せっかくタダでつけてやろうと思ったのに」
「義手ですか?」
「まあな」
「別にいいですよ、ずっとこのままだったんだし、今更つけても・・・」
「・・・そうだな」

奥華はソファに座っていた。買い物に行く直前、雷霊雲は『アビスに伝えとけ、あんたの娘さんが目を覚ましたぞ、って」と彼女に言っていたのだが、何となく気が進まなかった。数分経って可朗が来た。奥華は彼にそのことを押しつけようとしたが、可朗も気が進まないらしく、いやがっていた。そもそも、アビス本人がどこにいるかを知っているのはメルトクロスぐらいで、それを言い訳にして、二人とも動こうとしなかった。それにしても、お腹がすいた。
そのとき、ソファの後ろから背の高い男が現れた。雷霊雲は、なぜかそこにいたのだ。
「お前ら、一体何をボーッとしてるんだ」
二人はかなりびっくりした。「え、あれ?先生、買い物に行ったんじゃなかったの?」
「買い物ならデーマ一人で行かせたぞ。お前らに教えておきたいことを、いろいろと思いだしたんでな」
二人の顔をみると、雷霊雲は仕方なさそうにアビスのいる部屋に入った。ソファから見える位置だった。
一分ほどの沈黙が続いた。向こうでは何か話しているのであろうが、全く聞こえなかった。その後、突然そのドアを壊さんばかりの勢いで、アビスが部屋から飛び出してきた。彼は足で地面を叩くような走りで、カレンのいる部屋に飛び込んでいった。

「無事だったか!」
カレンがちょうど、ベッドから出て歩いてみようとしていたところに、アビスは入ってきて、自分の娘に抱きついた。
「無事でよかった!よかった!」
「父さん・・・く、苦しいです」
言われて、彼は少し手をゆるめた。
「悪かった。いや、本当に悪かった。今まで俺は、お前やその他の人間にさんざんな迷惑をかけてしまったようだ。今まで本当に悪かった」
「・・・父さん、いろいろと聞きたいことがあるんですけど・・・」
「そりゃあ、たくさんありすぎて、何から聞けばいいか分からないだろう。俺も一体何から話せばいいのか、全く分からないところだ」
「あの・・・まず、父さんの姿について、少し・・・」
「それか・・・実は、フォレスト族など一部の魔人族には、自分の姿を使い分けることができる能力を持つ。本来あるべきである魔人の姿と、そうでない、ごく普通の人間の姿とを、な。この二つよりもさらに多くの姿を使い分けられるものも、昔はいた。だが、これは恐ろしい昔話だ、今はおいておこう。だが、意識的に変身すると体がものすごく疲れ、寿命が縮むとまで言われていたから、俺は正直言って、生まれてからずっとこの本当の姿のままでいようと思っていた。だが、めのめ町から外の世界を知ったとき、俺は怒りで我を忘れそうになった。未だに、俺たち魔人族を奴隷として扱っている部分があるんだと!だがしかし、その怒りをどこにもぶつけることはできなかった。俺は今回みたいなことになる前から、少しずつ悪に染まっていた。仮の姿を使うことになり、フォレストという姓を隠すために、偽名も使った。それで通ったときにはホッとした。おそらく、他の魔人族もこうやって生き延びているのだろうと。だが、あるとき、仮の姿であり続ける理由がもう一つできた。それは、母さんのアルマがお前たち兄妹をもった時だった。俺もその時はすごく喜んだ。そして、出産が近くなったある日、こう思った。『もし、俺が魔人族の姿のままで、子供たちが俺の顔を見たら、どう思うだろう・・・?」・・・俺は、いつかは本当の姿を見せなければならないとは思っていた。だが、俺の意志でそれができるはずがなかった。これに関しては、こんな形で打ち明けることになっちまったが、俺自身がずっとそうできないよりはマシだったな」
「・・・そうだったんですか・・・」
「悪いな・・・そういうわけで、俺は二重の壁に押されて、自由を失っていた。そしてさらに、そんな俺と、俺たち家族に降りかかってきた、9年前のあの事件・・・」
「・・・例の、あの事件・・・ですか・・・」
「そう、あの事件が、俺たち家族を引き離したんだ・・・!9年たった今も、奴らの正体は分からねえままだ・・・」
「その事件について、今度はもっと詳しく説明してくれないか、アビス」雷霊雲が突然言った。奥華と可朗も、部屋に入ろうとしていた。
「・・・ああ、話してやるとも・・・

___その日は、少し黒みがかった雲が空をさまよっていたが、日は照り、散歩日和と言っても申し分なかった。俺とカレンとエルデラは、家の中にいた。仕事も、カレンとエルデラの学校も休みだった。久しぶりに家族で何かしようかと考えているうちに、この日が来てしまったものだから、これと言って何をするでもなく、終わってしまう一日のはずだった。その先週は珍しく妻のアルマが家に帰ってくることができて、二人ともすごくはしゃいでいた。しかし、この日は本当にすることが何もなかった。まあ、体を休めるから『休み」なんだろうと思いながら、三人で部屋の中をゴロゴロしていた。その事件の前触れなんてものを感じられるような、そんな危
機感はなかった。その手前まで、最後の一瞬まで、とても平和な気持ちだった・・・その時、玄関のドアが開いた。ものすごい勢いで。別に俺たちは履き物の目の前で寝転がってたわけじゃない。二階からでもその音はものすごい音だって分かった。俺の汗は一瞬にして冷えた。カレンとエルデラには待っているように言った。そして、もし悪人が入り込んできたというのなら、俺のデラストで撃退してやるつもりだった。しかし、そこにいたのは、川園、いや、峠口真悠美さんだった。俺が昔に惚れ、最終的には大網の妻となった人だった。なぜここに来たのかという疑問は、真悠美さん本人が先に答えを告げるまで、俺自身がその人に対して感じていた懐かしさに
かき消されていた。だが今度は、真悠美さんの言葉が、のんきな俺の気持ちをえぐり取った。
『この街から、早く逃げて!」
ただ事ではない、本気で俺はそう思った。真悠美さんのデラストの腕前は、大網とは夫婦で肩を並べていると聞いていた。だが逃げろとは?別に俺は強敵を前にして、自分は逃げて真悠美さん一人を戦わせるようなことは・・・というか、そういう問題ではない。強いはずの真悠美さんが突然自分の前にやってきた、そして逃げろと言った。自分自身もが危機にさらされているような口調で。俺は急いで二階に上がり、カレンとエルデラを両脇に抱え、玄関に戻ってくると、真悠美はすぐに走り出したので、俺もついて行った。
『一体、何があったんですか!?」
『私にもよくわからない・・・ただ、私について走って!敵の姿も見たいところだと思うけど、できれば後ろを振り向かないで!」
俺は言うとおりにしようと思った。ただ、あいつが心配・・・いや、その話はここではしない。とにかく俺は走った。背中の方から、ずっとものすごい破壊音がしている。だんだん遠ざかっていくということは、俺たちの方がスピードは速いのだろう。ただ、デラストを持っていない人間なら逆に追いつかれているだろう、そんなスピードだった。俺たちはなるべく逃げた。そして、町並みが見えなくなり、傾斜に入ってもなお走り続け、丘の上まで登り切ると、真悠美さんは立ち止まって振り向いた。俺ではなく、遠くを見ていた。俺もその方向を向いた。俺は驚こうにも驚けなかった。自分の暮らしていた街が、少し遠くでどんどん壊れ始めている。『やつら」
はおそらく集団なのだろう。まるで砂のように、細かいものがうごめきながら、街をどんどん破壊している。空は曇っていた。
『奴らを・・・倒さねえと・・・!」俺は無意識にそういった。
真悠美さんは驚きの表情でこっちを見た。俺自身も驚いた。しかし、言ってしまったのだからしょうがない。
『この二人をお願いします。できれば、大網の船を使って、ゾンクの街まで行って、そこにいる村雨と言う男に会ってください。大網なら知ってるはずです」
彼の有名人、薬師寺悪堂のことです、と言ってもよかったが、時間はなかった。それにもし言っていれば、それは俺にとってこの上ない屈辱となっただろう。俺は丘を駆け下りていった。駆け下りながら、両手に力を集中させ、戦闘態勢をとっていた。そこで、俺が見たものは・・・!
気がつくと、俺はある建物の中で寝ていた。さっきまではずっと無意識に戦っていたはずだ。かなりの相手を打ちのめしたはずだった。しかし、結果的には負けだ。さっきまで俺と対峙していた化け物達が、俺の寝ている周りをウロウロしていやがるから間違いない。コイツ等はどこに住んでんだ?それとも、今俺がここにいるのがコイツ等のすみかか?そいつらは、まず人間の姿をしてなかった。指の数がおかしいし、鼻と口を無理矢理前方に引っ張りだしたような形をした頭や、樹木のような色をした気味の悪い肌、そしてそこに浮き出ている、明らかに形のおかしい骨格・・・こんな化け物の姿すら一生見れない人間が世の中に何億人いることやら・・・まあ俺の姿も一版世間から見れば怪物なのだが__俺はさほど身の危険に対する恐怖も感じずに、余計なことばかり考えていた。しかし、その部屋に『そいつ」が入ってきたとき、俺の不安は一気に頂点に達した。村雨道男・・・いや、薬師寺悪堂がその場にいたのだ。俺は真悠美さん
に、こいつに会うように言っておいた。その本人がなんでこんなところにいる?しかも自分一人で、なんのためらいもなくこの部屋に入って来やがった。その雰囲気で分かった。コイツはこの化け物達を統率しているのだと。しかも、しかし聞き取りにくかったが、化け物達の発する言葉の中に、『悪堂様」という言葉が混じっていた。芸名に様付けか。化け物達はやつにお辞儀までしてやがった。で、当の本人は、そのまままっすぐ俺の前まで来て、皮肉のこもった笑いを込めてこう言った。
『あんたの娘さんは、しっかりと私達が受け取りましたよ」
俺はバカだった。なぜコイツが、今まで敵だったと気がつかなかったのだろう。そもそも、こんな軍団が存在するなどとは、夢の中でも思えなかった。人間ではない化け物達を、精神的に人間離れした人間が統率している。その様子を、人間離れした姿をした俺が眺めている。そうだ、あの時点ですでに俺は本来の姿に戻っていた。だがそれだけで、俺はこの後、コイツ等に反抗することもできず、気がつけば奴らの軍団の支部長みたいになってやがった。なぜか薬師寺悪堂のことは忘れていて、本人もそれを知っていながら、俺の部下になりすましてやがった__

・・・まあ区切りが悪いのは仕方がないが、後は周知の通りだ」
アビスは言葉を切った。少し沈黙が続いた。
「・・・・・で、でも・・・」
カレンが何か言おうとしたが、その用件をかわりに雷霊雲が紡いだ。
「肝心なところが抜けてないか?お前がなぜ奴らに洗脳される羽目になったのか・・・それをカレンは聞きたかったんじゃないのか?」
「・・・え、マジで?」
「スマン、今のはちょっとお前の娘を勝手に使ってしまった、ジョークに近いものだ。だが、否定はできないだろう?カレン」
カレンはかなりゆっくりうなずいた。
「・・・あれは本当に悪夢だった・・・正直言って思い出したくな・・・」
「分かった、無理するな」アビスが言葉を続けようとしたところを、雷霊雲は切った。
「何というか、話してはいけないことが沢山ある、ようだな・・・それは分かった」
「お・・・おう」

実際、アビスにとっては喉元まで出掛かっているくらいに話したいこともあったが、ここでは全く逆のとらえ方をされる話し方をしてしまった。アビスは困惑していた。そのすぐ後に雷霊雲が『まあ、残りは後でじっくり話すとしよう」と言ってくれなかったら、どうなっていたか分からなかった。カレンには母や兄の居場所も聞かれたが、彼は分からないとしか言えなかった。その後沈黙が続いた。どうしても話題が見つからないと思った雷霊雲は(そういう雰囲気にした張本人であるにも関わらず)無言で部屋を出て行ってしまった。その後すぐに、アビスを安心させる台詞を発したのだが。奥華と可朗も、部屋の外へ出て行ってしまった。カレンは黙ったまま、椅子の上に座っていた。頭の中で、今までの出来事を整理していた。
「父さん・・・あの、兄さんは、あの時一体どこへ行ったんですか?」
「・・・あの時?」アビスは彼女の言っていることがよくわからなかった。
「父さんの話では、私と兄さんが離ればなれになった所は、出てきてませんよね・・・?」
「・・・そうだな、そういえば、今度はお前が悪堂の下で暮らしていたときのことを俺に話してほしい」
カレンはもっともだと思い、あの男の家族の一員として暮らしたことを、彼女は丁寧に語った。
「なるほど・・・じゃあ、村雨家としてはそれほど悪い対応はなかったと」
「はい。奥さんも、ミッちゃんも、優しい人でした」
「となれば、やっぱり問題は主人にあり・・・か。娘にまで嫌われてるんじゃ仕方のないところだな。ところで、それ以前のことは思い出せたか?」
「・・・いえ、船の中で、赤い髪をした優しいお姉さんと一緒にいたことは覚えてます・・・その時はすでに、兄さんは近くにいませんでした」
「・・・そうか。で、少しずれるが、その船の中でお前と一緒にいた人が、誰だか分かるか?」
「ええっと・・・峠口・・・あっ、もしかして、天希君の・・・!」
「そうだ。大網の妻ってことはつまり、天希の母親であるわけだ。それが川園真悠美さんだ。エルデラがその船に乗っていたかどうかは分からないが、天希なら何か知ってるんじゃないか?そもそも、お前はその頃、天希には会ったことがなかったのか?」
「はい、船に乗ってる間は、いつも同じ部屋に閉じこめられてましたから・・・」
「畜生、大網の野郎め・・・人の心が分かるんなら、もう少しいたわれってんだ」
「でも、大網さんにあったことはありませんでした」
「だろうな。アイツは子供が大嫌いなんだよ。特に女の子に対しては、照れるとかじゃなくて、根っから嫌ってるらしい。やつの実際の背が低いのがいちばんの要因だと思うが・・・おそらく、お前を閉じこめっぱなしにしていたのもそのせいだろう。最終的には、自分の実の息子まで育児放棄するくらいだからな・・・」
「でも、真悠美さんはいい人でした。ぜんぜん若いように見えるし、もしあの人がいなかったら、あの部屋の寂しさには耐えられなかったかもしれない・・・」
「だろ!?やっぱり真悠美さんはいつになっても魅力的だよなあ、どうして大網なんかが好きになったのかは分からんが」
長らく話し続けている間に、どんどん時間は過ぎていった。
「おう、だいぶ話がずれちまったな。よしカレン、エルデラのことについて、天希に聞いてみろ、その方がいい」
カレンはうなずくと、部屋を出、ドアを静かに閉めた。

天希はちょうど、病院へはしゃぎながら戻ってきたところだった。今までどこへ行っていたのか、一体何が嬉しいのかカレンには気になったが、あえてそれは聞かず、彼女はいちばん重要な質問をしようとした。
「あの・・・天希君・・・」
「うおっと!これでカレンの声聞くの二度目だ!で、何?」
今の言葉で、なぜか彼女は顔が少し赤くなったが、すぐに落ち着いて、続けた。「エルデラ兄さんについて、何か知ってることありませんか?」
「・・・エルデラ・・・?何だっけその名前・・・」
天希は五秒ぐらい考え込んだが、ふと叫んだ。
「あーっ!そうだ、エルデラ!思い出した!」
「どんな人でしたか?」カレンは嬉しそうに聞いた。
「いいヤツだったなー、俺とすごく気が合ってて、アイツといると、ものすごく楽しかった!あ、そういえば、カレンって前から、誰かに似てるなと思ってたんだけど、エルデラかァ・・・懐かしいなあ・・・」
「兄さんとは、どこであったんですか?」
「どこで・・・?うーん、よく覚えてないけど、とりあえず一緒には遊んだ」
「そうですか・・・」その言葉には、自分の兄が、今自分の友達である人間と面識を持っていたということに対するささやかな喜びと、手がかりをつかめなかった残念さ、そして、同じ船に乗ったことがあるのに、自分の場合は全く顔を合わせたことが無いと言うことに対する疑問がこもっていた。
「ありがとうございます」カレンは礼を言うと、天希から離れていった。
彼女は昼に奥華と可朗が座っていたソファで、天希が話してくれたことを整理していた。
(まず、私が村雨家に渡されたとき、兄さんは__同じ船に最初から乗っていたとしたら__船に残されたままのはずだった・・・よく覚えてないってことは、天希君と兄さんが出会ったのは、少なくとも船の中ではないってこと・・・?)
カレンは少し分からなくなっていた。
(慶さんの時に天希君自身が話してくれた内容からすると・・・天希君は、少なくとも四、五年前までは船の中で生活していたはず・・・ということは、私と天希君が会っていてもおかしくない・・・でも兄さんは会ってる、でもたった一回くらいなんだろうなあ、あの天希君の様子を見ると・・・結局、天希君と兄さんが会ったのは、偶然なのかなあ・・・)
振り出しに戻った。カレンはため息をついた。しかし、さっきの天希の話から、兄に対する資料がほんのわずかでも増えたような気がして嬉しかった。
彼女は立ち上がって、窓まで歩いた。外はすでに暗かった。久しぶりに、たくさん喋ったような気がする。天希や奥華や可朗に比べれば口数はまだ少ないのかもしれないけれど、この日、自分の家族や仲間と『しゃべった」こと自体が、彼女を満足させていた。それだけに、今までの冷静な彼女ならここで最も重要なことを考えることができたかもしれないが、今現在の彼女には想像することができなかったのだ。自分の家族のうちの一人が、すでにこの世にいないということを。

外は冷えていた。雲が空を覆い、風が地上を包んでいた。しかし、さすがに暗闇一色というわけにはいかない。街の中に無数にある電灯がそうなることを拒んでいるからだ。
「そうだろう?デーマ」
屋上、雷霊雲とデーマは、風上に体を向けていた。デーマのかぶっているフードは今にもその素顔をあらわにしそうなくらいになびいていた。
「・・・いよいよだな」
二人とも、目を合わせようとしなかった。デーマがうなずいたことは、雷霊雲には見なくても分かる__それも一つの理由だったかもしれない。
「おそらく今頃は、メルトクロスや天希がそのことではしゃいでるはずだ」
デーマは今の言葉が果たして自分に投げかけられているのかを疑問に思った。
「さてと、寒くなってきたし、そろそろ夕飯だな」
雷霊雲はそういうと、下の階に降りていった。デーマは雲の切れ間からのぞく月をみた。同時に風はやんだ。まるで時が止まったように、その風景の中に、動くものは一つもなくなった。月もこちらを見つめているようだった。半月はまるで瞳のようだったが、デーマは今まで、それほど美しい瞳を見たことはなかった。よって、彼自身がその月を何にたとえようとしたのかは分からない。彼はただ月を見つめたまま、全てが止まっている状態を感じていた。
しかし、下から天希や可朗の声が聞こえてくると、彼はあきれたようにクスと笑って、下に降りていった。風はまた吹き始めた。

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