第五十話

「奥華・・・?」

天希はそれ以上前に進まなかった。広間の冷たい壁と、今自分の目の前にいる少女が同じ色に見えた。

「・・・ごめん」

奥華は非常に聞き取りづらい声でつぶやいた。皆思わず耳を前に乗り出した。

「ごめん・・・みんな・・・」

奥華はゆっくりと顔を上げた。その様子に一同は声を上げずに驚いた。顔を上げた奥華は確かに大粒の涙を流して泣いていた。泣いていたのだ。しかし、その目には光がなかった。悲しさの涙でも、うれしさの涙でもない。嗚咽するでもなく、顔を歪ませて涙を流しながら、自分達の方を見つめ続ける一人の少女を前にして、彼らは不気味な緊張感を感じ、動けずにいた。

(・・・?これはどういうことなんだ・・・?)

可朗は眉をひそめた。本来ならば束の間のピンチを乗り越えて再開したことを喜びたいところだが、向こうがその様子でない。それどころか、最悪の事態すら予感させる。

(警告・・・?)

最後列にいる可朗は顔を上げて再び前の方を見た。すると天希が緊張を破って奥華に近づかんとするところだった。

「一体何があったんだよ、奥・・・」

天希は困惑しながらも、自分の仲間に手を伸ばした。それを見る可朗は非常に嫌な予感を感じていた。

「待て、天希っ!」

その時、一瞬だけ奥華の身体が弾け飛んだように見え、だがその次には彼女の帽子が宙を舞う以外に一切の痕跡なく、彼女の姿は消えていた。

「えっ!?」

天希は床に落ちる帽子を慌てて拾うと、状況判断のつかぬまま、叫んだ可朗の方に振り向いた。巨大な影が目に入った。

「エルデラ!」

「え?」

次の瞬間、エルデラは壁にめり込んでいた。張り手によって壁まで突き飛ばされたのだ。巨大な手によって。

カレンと君六が異変を察知し、天希の方へ飛びのいた時には、可朗が蹴りの餌食となっていた。彼もまた一発の蹴りで近くの壁に叩きつけられた。

「何事でい!?」

君六が叫んだ。カレンもまた自分がさっきまでいた方に目をやり、そして驚きに見開いた。魔人族。

「誰だ?」

天希が一歩踏み出し、叫んだ。2mを越す背と、禍々しくしなやかな肉体を持ったその魔人は、3人を見下ろしながら、歩いてきた。

「クフフフフ。ようこそ、ヒドゥン・ドラゴナへ」

魔人はゆっくりと、やや嗄れた中年女性の声で言った。天希達は戦闘態勢を解かなかった。魔人はカレンの顔を見た。

「久しぶりだねえ。ずいぶん大きくなったじゃないか。え?あの弱虫のクソ弟の子供が、こんな所まであたしを邪魔しにくるなんてのは予想外だったよ」

彼女はエルデラの方をちらっと見てから、忌々しげにまた3人を見下ろした。

「あなたは一体・・・?」

「覚えてないかしらね?スエラ・フォレスト。ここヒドゥン・ドラゴナの頭領・・・そして何を隠そう、あんたの親父の姉さ」

スエラはそう言ってカレンに笑顔を見せた。侮蔑を含んだ笑顔だった。

「奥華をどこにやった!」

天希が一歩乗り出した。スエラは天希の顔を見てケタケタと笑い出した。

「大網の息子かい。あいつと違ってずいぶんとうるさいんだねえ。なに?奥華ぁ?それってのは・・・」

スエラは手を上に伸ばした。すると天希達の足元に水が渦巻いた。カレンは再び飛び退こうとしたが、水に足をすくわれタイミングを失った。三人は高くなる水の柱に閉じ込められた。

「こんな技を使うヤツだったかしら!?」

スエラは手を振り下ろした。水の柱は弾け、三人は地面に叩きつけられた。

「奥華・・・?」

天希はゆっくり立ち上がった。

「アハハハハハハハ!あたしだよ!」

スエラは再び強烈な蹴りを放った。天希に直撃し、天希は吹き飛ばされた。

「ハッ!安土奥華なんていうガキはいないよ。最初っからあたしだったのさ」

そう言ってスエラは振り向いた。目の前に飛び上がった君六の張り手が迫っていた。

「チッ、小癪・・・!」

「ウラァ!」

張り手が当たる瞬間、スエラは身体を水のように軟化させて攻撃を躱した。着地した君六は振り向いて追撃しようとしたが、足元から水が噴き出し、吹き飛ばされた。満足げな顔をするスエラの腕に糸が絡みついた。糸の先にはカレンがいた。

「あなたは・・・!」

カレンはスエラを睨んだ。スエラはまた笑った。

「町をドラゴナ共に襲わせた時もそうだよ。あんたらのマヌケ親父はね。なんにも考えてない。おかげで部下にしてやったはいいがあんたらにゃあっさりと負けたし、勝手こいて帰らなくなった」

スエラは腕を引いた。カレンはいともあっさりと引きに負け、身体を宙に放られた。同時にスエラはかかとを振り上げた。

「で!?」

スエラはかかとを振り下ろした。空中にいたカレンは足に捉えられ、地面とかかとに勢い良く挟まれた。床の一部が砕け散った。

「あたしにゃ何をしてくれるって言うんだい」

「倒す」

その声は後ろから聞こえた。エルデラだった。

「俺の家族を、親父を、俺達の一族を苦しめたお前を、俺は許さん!」

エルデラは両の手の人差し指と中指を、刀を構えるようにして型を作り、スエラに接近した。スエラは臆する様子もなくエルデラの真正面めがけて右の拳を突き出した。だが拳の動きと歯車で接しているかのようにエルデラの両腕は動き、拳の正面を4本の指で突いた。

「!?」

スエラは飛び退いた。あと少し踏み込もうものなら、手の骨が砕かれていたかもしれない。エルデラはゆっくりと両手を定位置に戻した。

「なるほどねえ」

スエラはさらに向かってくるエルデラをよそに周囲を見回した。君六もまた彼女の方へ向かってくる。

「ハハ、あんたたち2人はタフだね!潰しがいがある!」

スエラは懐から何か細長いものをふたつ取り出した。それをそれぞれの手で二人の方に弾いた。エルデラ、君六はそれをたやすく破砕し、さらに突き進もうとした。

「うっ!?」

エルデラは怯んだ。その隙をスエラは見逃さなかった。掌からホースのように激しい水流を噴き出し、エルデラの全身を打った。エルデラは声もあげられずに再び吹き飛ばされた。反対側の君六は怯んだ隙に水の柱に捕らわれ、もがいていた。

「クフフ、坊や達にゃ刺激が強かったかい」

スエラは細長い棒、すなわち特殊な線香をさらに取り出し、ライターで火をつけ、足元に置いた。その刺激臭にはその部屋にいる全員が気づいた。

可朗はその臭いによって朦朧としていた意識を少し取り戻した。さっきまでわずかに聞こえていた会話を頭の中で整理しようとした。

「奥華・・・?奥華がスエラ・フォレストだったのか・・・?でもそんな・・・」

可朗は奥華の今までの振る舞いを思い出していた。背の小さいながら、彼女に蹴られ殴られてきた記憶はあった。彼女が天希を見るときの目も、彼は何故か覚えていた。

「違う、それは違う・・・」

そして今のスエラ・フォレストの方に目を向けた。あれは奥華じゃない。まるで魔女だ。何かにかこつけて自分達を騙そうとしている。

「まやかしだ・・・!」

壁から逆さまに剥がれ落ちたままの体勢で、可朗は叫んだ。それに共鳴するかのごとく、天希も叫んだ。

「まやかしだ!」

天希は頭の整理がつかなかったが、目の前にいる敵が、今まで共にいた友達を亡き者にしようとしている事は、彼にとって紛れも無い事実だった。彼は踏み出した。

「喰らえっ!」

天希は掌を突き出した。炎の槍がスエラめがけて伸びた。対するスエラは腕を振った。指の間から流れ出る水が尾を引き、彼女が腕を回転させるとそれは水の盾のようになり、炎を受け止めた。

「ハハハハハ、言ったじゃないか。安土奥華なんていう人間はいない。それこそまやかし、いや、あんたたちが勝手に見ていた幻だったのさ」

「違う!」

「何が違うってぇ!?」

スエラが腕を振り払うと、水の盾は矢に変化し、炎を突き破りながら天希の身体を次々に打った。

「ぐあああああっ!」

しかし天希は踏みとどまった。水の矢が尽きた瞬間、天希は再びスエラの方に突っ込んできた。

「無駄だねぇ!」

飛び上がる天希にスエラは裏拳を喰らわせた。天希は吹き飛んだはずだった。では自分の顔に今、炎の鉄拳を喰らわせたのは?

「あ゛ッ!?」

天希は確かにその瞬間、スエラの裏拳を『かわして』、代わりに拳を喰らわせていた。裏拳を喰らった方、つまりドッペルは壁に、叩きつけられながらも、くずれた顔で叫んだ。

「いいぞ!そんなヤツ、や、やっちまえ〜!」

天希はスエラの目の前で着地した。

「こ・・・の・・・ガキが!」

見回すまでもなく、スエラはカレン、エルデラ、可朗、君六にも囲まれている事に気がついた。しかし彼女は劣勢を感じることはなかった。足元の線香はまだ灯っている。

「奥華を返してもらうぞ」

スエラは懐から何かを取り出した。天希は飛び退いたが、彼女が持っていたのは液体の入った小さなビンだった。カレンとエルデラの顔が青くなった。

「ヴェノム・ドリンク・・・!」

双子は止めに入ろうとした。スエラは大ジャンプでその場から退いた。液体はビンから飛び出たが、まるで意志を持ったように宙を泳ぎ、スエラの口へ入っていった。

「やめろっ!」

スエラは液を飲み、満悦の顔で彼らを見た。

「若いの5人相手するには疲れるんでね」

「ふざけるな・・・!」

エルデラが構えながら飛びかかった。スエラはビンを握った体勢からピクリとも動かなかった。しかし、予想外の方向から噴き出した水の柱はエルデラを捉えた。

「ふん!」

スエラが両手を地面に打つと、広間は一瞬にして水で満たされた。スエラの声が水の中に響いた。

「そろそろ・・・子供達はお眠の時間かねえ・・・」

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