「面割れ病」

「待てえっ……待ちなアンタあッ……!」

中年の女性は憤怒に叫んだ。困惑と悲しみは怒りに上塗りされ、ただただ声を張り上げていた。床には動かぬ子供。そこから漏れ出す血が、黒い足跡を覆い隠す。足跡の主はもはやそこにはいない。

「許さない……許さないィッ……!」

女性は全身の血を駆け巡らせ、四つ足で大地を蹴って逃走者の背中を発見する……幻影だ。彼女を駆動させるはずの血は、切断された両足から虚しく漏れる。哀れな獣はその場で四肢をバタつかせていたが、やがてすすり泣きを始めた。体に残った力は、嗚咽と、この悲劇の記憶をフィードバックする事に使われた。

襲撃者の姿。夫に瓜二つ。だがその変装は解けかけていた。顔にヒビが入っていたのだ。あの時すぐに動いていれば、こんな事にはならなかっただろうか。少なくとも、自分が死に、息子は助かったか。しかし、そもそも何故私達がこんな目に。あの男。許さない。許さない。許さない許さない許さない許さな許さな許さな許さ許さ許さ「はいそこまで」

不意に、彼女の怒りが消えた。その次の瞬間、押し寄せる感情によって忘れ去られていた傷の痛みが押し寄せ……ない。彼女は眠った。顔に入りかけていたヒビが、みるみる閉じていく。

「加害者が増えるところだったぞ、おばさん」

横たわる中年女性の頭から、小さな黒い石を挟んだ手を離し、ハイドレートはその部屋を見渡した。新鮮な血の匂いが、視界よりも強く頭に訴えかける。

「いやしかし、これはひどいものだ」

ハイドレートは子供の脈を手首に二本指を当て、重いため息をつくと、壁の方を見やった。否、そこにあるのは壁ではなく、無造作に開けられた穴だった。血の筋はその穴に続いている。

「どうですか」

後ろから声がした。ハイドレートは振り向きもせず、

「カバー持ってこい。子供の死に顔見ながら運ぶのは最悪の気分だろ」

後ろでパリパリと音がし、子供の死体はしめやかに運び出された。さらに2〜3人が部屋に顔を出した。

「他にいるか?被害者は」

「この部屋だけです」

「ならとっとと帰るぞ」

ハイドレートは床を見やった。倒れ臥す女性の足には、先程まで転がっていた両の足先が元のようにくっついている。接合部は、彼の両手が放つ光と同じ、桃色の光を放っていた。彼は女性を担ぎ上げた。

「追わなくても良いのですか?」

部下らしき男の一人が、壁に開いた穴とハイドレートを交互に見やる。ハイドレートは追い払うように首を振った。

「俺の仕事ではない。あれは奴一人の仕事だ」


「ハアーッ、ハアーッ……」

フォグは獣のごとく四つ足で駆ける。その顔はヒビ割れの間から焦燥の色を見せていた。

「ああ、リンス……、リンスううっ!!」

フォグは叫んだ。彼はひたすら逃げていた。家族の住む家から。

「俺は……俺はケダモノだ!俺はぁ!」

駆けながら、パキパキという音を彼は聞いた。顔が割れる音。己が己でなくなっていく音。負の感情__後悔・嫌悪・害意・愉悦に、己の心が蝕まれていく音。

「やめろ……ハハ、やめろよ!」

フォグは加速した。それははじめ、己の醜い思考を振り払うためのものだったが、むしろその感情は昂りを見せ、それが更に彼の足取りに拍車をかけた。

「ハハハハハ……ハハハハー!」

道行く者たちは視界から滑るように、前に現れては後ろに消える。風に吹かれるように、現れては消え、現れは消え……現れた。フォグは急ブレーキをかけた。

「ア……」

その男、黄金の長髪をなびかせ、凛とした両眼で彼を見つめる大柄なその男は、フォグが落ち着くのを待った。

「こ……コースト、さん……」

フォグは眉根を釣り上げ、笑った。

「俺、妻子を……殺しちまったよ……」

両眼の端から流れる涙が、顔のヒビを伝う。コーストは目を離さない。

「俺、俺、ハハッ、ハハハハハ……」

フォグの顔の亀裂がさらに開いた。コーストは目を離さない。

「ハハハハハ!いい!いい!殺した!殺したんだよ!すごくいい!」

フォグは舌をベロベロと出し、目を見開いて笑った。もはやどこを見る目でもない。顔の亀裂は喉を覆い始めた。

「次!次の!次の妻子は!どこだあーッッ!」

フォグは「ハァーッ!」「アギャーッ!」フォグは地面に頭を強く打ち付け、バウンドした。飛び蹴りを食らわせたコーストは身を捻り、そこからさらに追撃を加えんとする!

「ハッ!ハァッ!」「アギャギャッ!」

コーストはそのままフォグの胴体を踏みつけ、ステップを踏むような蹴りを食らわせた!バウンドが収まるか否か、フォグはコーストを醜く伸びた腕で鷲掴みにせんとする。だがコーストは極めて冷静にその腕を掴みとった。

「フォグ。荒療治を許せ」

コーストは一瞬表情を緩めると、すぐに強張らせた。それと同時に、彼の手から青白い光が放たれる!それはフォグの腕を、肩を、背中を伝い、全身を明滅する光にて焼き焦がす!

「アギャバー!?アギャバギャーッ!」

ほんのコンマ数秒の出来事であった。フォグは目を白黒させて気絶し、コーストは深呼吸ののち足をどけた。そして、懐から白い石をいくつか取り出し、動かないフォグの胸の上に置いた。

「ア……ア……」

フォグは痙攣を繰り返したが、意識は遠くにあるままだった。コーストは座り込み、神妙な面持ちで石を見守る。石はフォグから何かを吸い上げるように、黒い渦を表面に描き始めた。パチッ、パチッと音がし、いくつかの石が真っ黒になり、そして砂に変わった。コーストは待った。やがて……いくつかの石が白黒のマーブル模様の状態で完全に制止すると、コーストは大きく息を吸い、

「ハァーッ……」

吐きながら立ち上がった。

そこに倒れていたのは、顔にヒビひとつない、優しい父親の顔をした男だった。だがその寝顔はどこか寂しげだった。コーストはしばらく目を伏せ、そして男を担ぎ上げた。彼はもう一度大きな息を吸って吐くと、やり場のない怒りを交えた小さな声で呟いた。

「……面割れ病、か……」

 

おわり